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今日気づいた

中学校時代の友人たちと久しぶりに会った。思えば四十年以上の付き合いである。私たちそれぞれこんな人生を送るなんて思いもしなかったね、そんなことを言ってしみじみしてしまった。

別の用事で一足先に帰った友人を見送りながら、もう一人の友人が「昔からぜんぜん変わらへんなあ。あの子は秀才タイプ、あんたは天才タイプやったなあ」という(この「秀才」「天才」というのは便宜上のタイプ分け)。

先に帰った友人は、コツコツと努力をし続けることのできるタイプである。私が彼女を尊敬しているのは、その冷静さにおいてだ。彼女が取り乱しているのをみたのは中学校のときのたった一度しかない。いったん決めると何が起こっても冷静に、ブレずに淡々と自分のするべきことを続けられる人だ。

中学生のころ家出した私に、いま社会に出ようとしてもマトモな職に就けないからとりあえず進学校に受かるよう勉強しろと帰らせたのを始めとし、人生の節目節目で彼女は私がおかしな方向に行くのを救ってくれた。恩人と言ってもいい。

彼女に対して私は、友人に言わせると感情の浮き沈みが激しく、好きなものには熱中するがそうでなければ必要なことでもしようとしなかったらしい。心当たりはある。

いつも冷静で淡々とするべきことを続けることのできる友人は、社会的にも成功者といえる人生を送っている。彼女にだって、きっと私のようにつらいことの一つや二つはあったはずだ。でも変えようのないことは変えようとせず、自分の努力で変えられることにコツコツと体力気力を注いできたことが、今の彼女を作ったのだろう。

それに対してあんたはなあ、ともう一人の友人は続けた。怒ったり泣いたりしても変われへんことにエネルギー使うてたな。いろいろあったから怒ったり泣いたりするんもわかるけど、どうしようもないことはほっといて、変えられる方に淡々としてエネルギー注いでたらよかったんちゃうーー

ほんまにそうやわ、頷きすぎて首がもげそう。
私は、変えられる変えられないに関わらず、自分にとって重要なことなら怒ったり泣いたり、大騒ぎしてしまう。
さすがに仕事はコツコツとしているつもりだけど、過集中して予定以上できた翌日ぐったりなんてことを、今でもときどきしてしまう。何事も起伏が、ムラがあるのだ。

今日のこの日に言われたこと、気づいたことを忘れないように書いておこう。変えられないことに気力体力を消耗しないよう、変えられることを見極めて淡々とするべきことができるように(この歳からか…!)


これって何かに似ていると思ったらニーバーの祈りっていうものだ。何十年も前から知ってたやん。

神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。
変えるべきものを変える勇気を、
そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えてください。

Wikipedia ニーバーの祈り より

ありがとうございます。