私は母から解放されたのか

母が死んだ。
この日が来ると自分がどんな気持ちになるだろうかと、ずっと思っていたが、別に何も起こらなかった。淡々とするべきことを済ませた。ただ、非常に疲れている。

私は母に甘えた記憶がない。抱きしめられた記憶も優しい言葉をかけられた記憶もない。
叩かれて育った。あるとき裸足のまま足から血を流して走って逃げたら、近所の人に知られて恥をかかされたと言われ、よけいに叩かれたので、それからは逃げるのをやめ、甘んじて叩かれることにした。

母が私にこういう態度をとったのには2つの理由がある。

1つは、私が母にとって小姑にあたる叔母に似ていたからだ。母は一重の細い目で、私は二重の大きめの目である。父の実家で同居していたころ、母は叔母との関係がうまくいかなかったらしい。幼い私が母の顔を見上げると、母は私の顔が叔母にそっくりだと罵り、母に話しかけると、私の声が叔母にそっくりだと罵るのだった。

もう1つは、私が誘拐されたからだ(さいわい、暴力を振るわれたり殺されたりする前の段階で逃げることができた)。母は「母親が目を離していたからだ」と責められる重圧に耐えられなかったのだろう、一通り何が起きたのかを聞くと、もう一切この話をさせてくれなかった。そのため――のちに一部思い出すことになるのだが――私自身、この事件と、このころの記憶がない。

昭和の時代は体罰がまかり通っていたし、子供を雑に育てる親も珍しくなかったので、私は母のことを、ふつうよりちょっとキツイだけなのだと思っていた。子供のころの私の愛読書は『赤毛のアン』だった。アンのためを思って厳しく接するマリラと母を重ね合わせて、何度も何度も読んだ。

しかしさすがに中学くらいになると、自分が母から手間も金もかけられておらず、サンドバッグのような扱いを受けていることが嫌でもわかってきた。母は「子供といっても好き嫌いがある。おまえは嫌いや」と言って、きょうだいを可愛がった。妹ができたので、扱いにくい娘の私はいらなかったのだろう、養子に出されかけたこともある(このときは私自身が拒否したのだが、養子になった方がよい人生を送れていたのにと後悔している)。

小学生のころから私は何度か家出をしたが、中学2年のとき匿ってくれると思っていた友人に断られ、「いま家出しても碌な人生にならない、いまは我慢して勉強して、自立できるようになったほうがいい」と言われたのをきっかけに勉強するようになった。持つべき物は、まともな友人である。

その後、私は公立の進学校から地元の国立大学に進学した。きょうだいは私学の学費を出してもらっていたが、私はアルバイトで学費を工面した。母は私が高卒で働かなかったと言って怒り、月3万円の生活費を要求した。大学進学と同時に家を出たかったが、アルバイト代は学費と生活費とお小遣いとで消えていき、なかなか実家を離れることはできなかった。

実家を出てからは、祭りと盆と正月以外は母に会うこともなかった。ただ子供ができると、私の都合で子供から祖父母という存在を奪ってはならないと思ったので、それなりに子供を連れて行った。母も孫はふつうに可愛がった。

このような育てられ方をしたけれど、私は特に母を恨んでいなかった。

古くてプライドだけはある家に嫁に来て、よっぽど嫌な思いをしたのだろう、可哀想にと思っていた。人は誰かを可哀想だと思うことで、自分の立場をその人より上にすることができる。母も可哀想な人だから--私はそう思って自分を保っていた。

それに、殺されるかもと思いながら逃げてきたときの記憶は、長い間、抜け落ちていた。母がいたいけな私を、抱きしめるでもなく、汚らわしい物のように扱った記憶も、蓋をされていたのである。

しかし、特に恨んでいないなどと、わかったようなことを言いながらも、母にこのように扱われてきたことは、私の精神を蝕んでいたと思う。30代に鬱を患ったとき、回復の過程で、私は殺されそうになった記憶を一部思い出した。恐怖と共に、思いがけず、母に対する激しい憎しみが湧き上がってきた。このときまで私は、自分が母に対してこのような感情を持っていると思っていなかった。まるで暴風雨の中にいるようで、立っていられず、四つん這いになってしばらく布団にしがみついていた。

心のケアなどという概念がない時代でも、誘拐犯の部屋から脱出して自宅にたどり着いた子供を抱きしめることはできたと思う。母親の落ち度がいまよりも責められる時代でも、その子供の口を塞ぎ、その後ずっと、まるで汚れた物のように扱うことはないだろうと思う。

母親に、ふつうに育てられていたら、私はもう少し頭脳も性格も良くなっていただろう。本来の私の人生を返してほしい(こんなことを言うと、責められるのは母親ではなく犯人だと言う人がいるのだが、いまは母親の話をしている)。

さてそんな母親が、認知症を患い、死んだ。私は母が認知症になったころから実家と家を往復した。地域包括センターを訪れ、ケアマネさんにいろいろ相談し、デイサービスに通わせた。認知症が原因でご近所に迷惑をかけるたびお詫びに行った。実家の荷物も片付けた。母の老後の蓄えだった通帳の残高が、いつの間にかゼロになっていたときは目の前が真っ暗になったが、年金でなんとかできる施設を探した。

こういったことを、何もしないきょうだいにも手伝ってもらえと言う人もいたが、そんなことを言えるのは私のような親子関係とは無縁の人である。きょうだいはふつうに親に愛されて育ったのに……と思い出す苦しさに比べたら、一人でぜんぶこなすほうが、はるかにマシなのだ。

母の世話を焼く私は、傍目には孝行娘に見えただろう。

私は10代のころから最近まで自分が母の実の子ではないのではと疑っていた。実の子でありませんようにと願っていた。実の子なのに愛されないということは、なかなか受け入れにくいからである。しかしこの甘美な疑いは、疑いのまま終わってしまった。

ありがとうございます。