株というもの

現在は電子化されている株券だが、子供のころ一度だけ紙の株券を見たことがある。

それは茶箪笥の上の小さな引き戸の中に、他の貴重品と一緒に入っていた。茶箪笥を触ると叱られたので、中に何が入っているか私は知らなかった。あるとき、父が中のものを取り出していたので見に行くと、印鑑や通帳、写真などと一緒にそれがあった。
「これ何か知ってるか?」
「知らん。」
「株券や。学校で習わへんのか。」
「“かぶけん”?」

実家は町工場だった。同族経営の小さな工場だが、伯父が株式会社にしたのである。
「これはうちの会社の株券いうもんや。うちは株式会社でおっちゃんが社長や。」
「お父さんは?」
「お父さんは……副社長や。」
「お父さんすごい!」
食事の後片付けをしている母が、くだらない、という顔をしている。

「会社作ろ思うたら、お金要るやろ。」
「うん」
「でも、ない。お前やったらどないする?」
「うーん……そうや! 借りるわ。お金余ってる人に頼むわ。」
「せやな、お金いっぱい持ってる人は、お金遊ばしといてもしゃーないからな。
 それでや、会社にお金出してくれた人に、この株券やるんや。お金出してくれた人は株主や。」
「ええなあ、そしたら私も会社作れるな。」

母は食器を下げに来て株券をチラと見ると、
「そんなんタダの紙切れや。」
と憎々しげに言う。
「おまえは黙っとれ。ーーまあよう聞いとき。
 もし会社が儲かったら、この株券持ってる人に儲かった分からナンボかやる。」
「えー、株券ってええなあ! 私も株主なりたいわあ!」
私が身を乗り出して話していると、母が
「配当なんかもろたことないわ。」
と口を挟む。
「もらわれへんこともあるのん?」
「もし会社が儲からんかったら、やる金はないわな。」
「儲かってたかて、私らにはくれへんねん、あのケチの社長は。」

私は子供の頭で必死で考えた。郵便局にお年玉を預けたとき、利子はどのくらい付くか決まっているのに、株主にどのくらい配当が出るかは一定せず、もっと複雑なあれこれで決まるらしい。
「なーんや、私、“はいとう”をもらわれへん株券なんかいらんわ。」
「いらんようになったら、売ったらええ。」
「え、“かぶけん”って売れるん?」
「売れる。株券もろうたときより高うなることもあるし、安うなることもあるけどな。」
「へえ。この“かぶけん”、ナンボで売れるやろ?」

母がまた嫌みを言う。
「そんなん、売れるかいな。」
私はふと嫌な感じがした。
「あのな、お父さん。もし、もしやで、会社がつぶれたら株券持ってる人にお金返すの?」
父はあっけらかんと答えた。
「そんなん返されへんに決まっとるがな。会社がつぶれたらこれはタダの紙切れや。」

こんな会話をしてから五十年くらい経つ。子供に対するざっくりした説明なので不正確なところもあったけど、株というものを実感を以て理解できたのはよかったと思う。

ネット証券ができたころから私もなけなしの資産の一部を株にしているが、よく知らなかったり好感を持てなかったりする会社の株は買わず、レバレッジには手を出さないのは、頭で考えてそうしているというよりは、このとき株というものに対して持った強烈な印象からのような気がする。特に、株券がタダの紙切れになる可能性がある覚悟をしておくということは。

ありがとうございます。