「日々のきのこ」の感想。

感想しか書かないし、間違った評価を書くかも知れない。ネタバレもあるので、読む前の参考には不向きな文章になります。

タイトルと表紙を見る限り、詳しくキノコの生態が描かれると思いましたし、キノコ同士は会話するくらいのファンタジーは有るんだと想像してました。多種多彩なきのこは登場します。でも喋りません。読んでいるときは気づきませんでしたが、今思うとキノコ自体は話しかけてない。ただ在るのみ。生きづくのみ。

これも今気づきましたが、様々なキノコが登場して毒キノコどころか、悪臭を超えて、付近を散策するだけで死に至る危険なキノコがあっても、山に人が入らぬよう工夫するだけでキノコを排除しようとか、焼くなどはしない。
キノコとの共生関係を人が求めてる。最後まで読んだあとだと、そういう感想になります。
キノコはそこに在り、キノコは広がる。キノコは生きている。
キノコが好きでキノコに敬意があるものが、キノコを調べキノコを踏んで拡散させていく。
人のモノローグで、キノコを語りつつ話が進む。

ばふ、ばふと、キノコを踏むから、胞子を吸い込んでしまう。キノコと同化しそうだし、同化しなくても身内より近しい、身になってる気するのだろうが、そんなことでは済まず。進めばキノコな人になる。

そこまでなら、なるほどそういう話かとも思うけれど、キノコは菌糸があるから地を這い、潜り、胞子も飛ばすのでその空間自体がキノコそのものと言ってもいい。自他の区別が曖昧で、空間内の濃淡であったりする。
かつて人だったキノコとの共生体になると、人の形の何かが人のようで、キノコの変種のようでもあり、地を這う菌糸と、舞い上がっている胞子とも相まって、何処から何処までが人だった生態なのかも判然としない。
人里に降りる時に、周囲に膜が張ったようになるという描写もあった。
睡眠時間も増え、いずれ人だった部分は消滅する。
別に取り憑かれて死んだとかではなく、別の生態への変化だ。
変態というべきか。

こう書くと明るさがないけれど、筆致はむしろ明るい。

僕がこの小説に感心したところを書いているので、妙に真面目な文章になってるだけです。

人が変わったように、人が変わる。

胞子を得て、キノコが自他の区分を超えて徐々に置き換わって、乗り行ったり乗り込んで来てもらったりする。心も身体も距離が縮まって、触れる。そして吸収もされる。

偶発的な出会いにふさわしい偶発的な物の交換。

誰かと出会うと、どうということ無いものを互いに渡し合う。
渡す。渡される。頻繁に交換する。塩だったり、詩を綴った紙片だったり。
敵ではないこと。むしろ仲間であることの証。上ナシの発想にも近いかも知れない。道々の徒のような、行きずりでありつつ淡い仲間意識。

ダグトリオはキノコっぽさもある。

その淡い関係を乱したのか乱してないのか、女性はキノコ仕事仲間と交媾があり関係者は複数人居る。これは交換の一種としたら同格のものをやり取りしてると言えるのか。この女性と通じてる三人の男性は、女性が自分以外の男性と通じてることを知っているのか。知らないで居るのか。
どういう了見で通じてるのか。(女性の側の考えも知れない)
胞子活動という奉仕活動の合間に人としての胞子活動を奉仕し合うのかと思うと・・・それでいいのか?
妊娠したら誰の子かわからないし、産み育てるとしたら山中を練り歩きながらの仕事はできないから休んだり預けるしかなくなる。
或いは赤子が生まれずに胞子の入った袋がい出てパアッと胞子が広がって男が妊娠するというほうがファンタジーではある。まあ、妄想はさておき。
閑話休題。
わからないことが多いこの部分。
おそらくはフラットで並列な関係があるということでの交媾なのでしょう。そして男同士といっていいのか、そういうシーンもあり、そこでも力関係の傾斜が出ないように気に掛けている描写もあった。
男女の方に話を戻すと、女性が最も気にかけている「遠延(とおのぶ)」に対してだけ「透明水カプセル」の話を伝える。彼女はカプセルを体内に入れておく都合上、交媾はできないと考えているが、別に前席に先客がいるからといって後ろは空席だし、口だってある。
スタンダードな行為に拘っているのだろうか。
それにいつも山中にいるから避妊はしてないはず。
ここいらへんの行為と各々の気持ちと欲望とのバランスはわからない。

近いもので言うと「ホットゾーン」の冒頭の方で、現地の人の案内で奥地まで行った際に案内してくれた女性と懇ろになるエピソードがあるが、それは今回以外で逢うことはないし周囲にも知られないし、そもそも案内で金銭の授受があるという関係で、割り切ってる中でもかなり割り切れてる関係だ。

翻ってキノコ繋がりの男女だと、時々会って情報交換もする関係で、割り切った関係という、馴染みつつ割り切るという絶妙な関係。
しかもそういう立場の男性が3人いる。
自分と同じ関係者が、自分の他に二人いることを知っているのだろうか。
知らないで女性が他の男性と会っていたら気まずいだろう。
知っていても気まずいか。デートの順番待ちをするんだろうか。山の中で?

各々が行くところまで行ってしまえば、
行けるのか行けないのかに悩むこともないから最初から交媾しておけばいい。という本当にそれでいいのか?ボノボみたいなことでいいのかという疑問はありつつ、この解消の仕方は有るといえば有る
人はボノボのようにはそうそうなれない。
そこを橋渡しするのがキノコだと言われたら、そのビフロストの橋にのってしまってもいい。
キノコは考えないし、仮に考えたとしても、人だとて子作りや養育など、するのが当然だと考えるし、可能ならのべつすることだと確信してるだろうから、「やらない」という選択肢はない。
人がキノコの態度に倣うとは思えないが、キノコと同化しつつあるものはその限りではないだろう。

余計なことをいえば、男性の逸物は松茸ともいわれるし、種をだすのだからまっことキノコっぽい異名。
男性のそれっぽいキノコがあるのだから、女性のそれっぽいキノコがあってもおかしくはなく、そのほうが彼らにとって愉快なことと思う。

いちいち話が逸れてしまうけれど、彼らの心の持ちようが如何様なのかが気になって仕方ない。
どこにでもある嫉妬心があるのか。嫉妬心があるなら何をしてしまいたいと思うのか。早く彼の者がキノコに近くなってほしいのか、自分のほうが早くキノコに近づけば嫉妬心も失われると考えるのか。
嫉妬心があっても堪えられるのか。
はたまたなんら嫉妬心がないゆるい紐帯があるだけなのか。
彼女は誰かを愛してるのか。
愛してないのか。
男性のたとえば、遠延は彼女のことを愛しているのだろうか。

とまあ色恋の外縁を掠めるような記述があると、気になりますね。

そしてSF。
後半にはかなりSF色が濃くなります。
かなり長文を書いたので、SF云々とここで書いても、もう構わないでしょう!
自他の境が曖昧になるというのは「攻殻機動隊」でネットワーク上の自分の、データ上のみで自身が存在する場合、何処から何処までが自身なのかがわからなくなります。
肉体の軛があったとて、目の前の情報に一喜一憂する自分の本物がどの瞬間か?と考えれば、「今この一瞬」としか言いようがない。肉体がある以上はそこに心身が在るといえる。肉体のないデータ上の存在の場合
は「今この一瞬」すら覚束なくなる。
インターネットを通じて、そういう曖昧な自己に言及していた「攻殻機動隊」。
「日々のきのこ」は、きのこを通じて曖昧な自己をしたためてくる。
この小説はSFだ。なんて最初にいっちゃうと、派手なネタバレで良くないと思っていました。
だから艶っぽい話を長々して、ここにたどり着きました。

いまのところ、こんなところです。
また読み込んだり、考え込んだら違うことを思うはずです。

追記 2022年1月11日 午前0時8分
P13 「綴じ者」という語が登場する。
「綴」は、つなぐ 結ぶ 意味があり
重ねて縫う。
つらねる つづける かさねる
しるしの旗
などの意味がある。ふさわしい語。

P29 108型粘菌。体躯が変化する主に体表面と感覚器官。

時茸 時を超えるキノコ。

時を超えることができる。体を変化させる108型粘菌がある。
いつか時を自由に行き来して、体躯も自由に変化させ、
自在のコミュニケーションも取れる「生物」になれる魁か。

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