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純朴男子大学生がストリップに行って賢者になった話

(アウト要素は薄いですが、アダルトな場所の紹介なので18歳未満の閲覧は禁止します)
これは愛媛県・道後にあるストリップを観劇しただけの話です。
先に言っておきますが、同日程で実施されたらしい某団体の旅行とは一切関係ありません。フィクションですよ、フィクション。

発端

桜が蕾を膨らませ始めた、ある春の日のことである。
愛媛に旅行した私は、その日合流した友人からあることを聞く。

「どうやら道後温泉には、四国最後のストリップ劇場があるらしい」
「そこは昼はうどん屋として営業し、夜はストリップ劇場になるんだって」

これを今朝街歩きしていた際に近所のおばばから聞いたというんだから、怪しさはひとしおである。年頃の男子を捕まえて、朝から何か騙してるというかおちょくられてるというか…てかうどん屋って何だよ。美味いのかよ。

ただ、「四国最後」とかそもそも「ストリップ」というものに興味がないわけもなく、興味のない風を装いながらもどんどんと頭が侵食されていくのは欲のせいか文化のせいか。

その旅行は集団旅行だったため、とりあえず昼の間は一旦秘密、棚上げということになり、話は消えたものとして振る舞うこととした。

三津浜からの夕景
ゲーミング観覧車

逡巡

夜になった。何の話をするでもなく、夕食も食べた。

こういう文章であれば、本当なら「夕食を食べる間も…」とか「観光している間も…」とかそういう興奮系を貫くのだろうが、実際のところそんなことはない。そこまで欲望に支配されちゃあいないさ。友人は知らないが。
ともあれ、普通に観光を楽しんでしまった。
いやだって楽しかったし。いよてつ髙島屋の観覧車綺麗だったし。それで良いし。

ただ、どうやら友人の身体は「覚えていた」らしい。
うーーんうーーんうーーと、ホテルに帰る道すがら呻いている。
様々な亡霊に取り憑かれながら生きているのが人間である。

ここから「行きたいけど他の人もいるし…」「んーちょっと怖い…」「いや金が…」「学割がある!」「時間間に合わなくね?」など当人にとっては複雑怪奇、整理して仕舞えば何も悩みになっていない悩みを繰り広げ、早30分が過ぎた。純朴な国立大男子学生が苦悩する姿を見て、皆さんはどう思われるだろうか。笑うなら笑うがいいさ。君たちにちっぽけな悩みで大いなる逡巡を繰り広げた経験はあるか。ちっぽけな悩みが巨大嫌気生物の如く地底にネットワークを張って某筑波大学の歩道の如く根上がりした経験はあるか。メイクス・逡巡・グレート・アゲインであった。

決行

前段だけで1000文字を超えそうなので、さっさと劇場の話をしたい。
何はともあれ、惰眠と飲み会の誘惑に打ち勝ち、新たなる誘惑に騙された、「人間」に忠実な我々は、交通機関が終電を迎えた午後10時半、一路道後温泉を目指して駆け出した。人生であれだけ走ったこともない。走馬灯ランキングには上位で掲載されるだろう。どうせ載るなら本編であって欲しかった。

基本情報

SEXY GALS THEATER

今回赴いたのは、道後温泉本館のすぐ横にあるストリップ劇場である。以前来た時には全く分からなかったので、こんな近くに…と驚いたが、夜ではなかったからかもしれない。
1日に4公演行っており、一番早い回が17時、最終が22時半であった。毎回3人の踊り子さんが出演するそうで、大体一人30分、全体で約1時間半の公演。これを知らずに行ったので、早くに終わってしまうのではないかと、行きはだいぶ焦った。
料金は1ステージ3500円。なぜか学割制度があり、適用されると2500円になる。
皆さんが気になっているであろううどん屋は、11時から15時までの営業で、ソーキそばが名物だそう。それは果たしてうどんなのか。行けていないので、誰か食べたら教えてください。
ちなみに、(写真会以外の)写真撮影はもちろん厳禁なのでここから先、画像はありません。

潜入

入ったのは23時前で、もう1人目もクライマックスといったところだった。
ただ、ショック療法的に目を鷲掴みにされたのもその1人目だった。

劇場は小さなライブハウスほどの大きさで、客席は半円状になっており、真ん中に花道がある。
暗い劇場内をそそくさと周り、一番後ろの目立たなそうな席に座り、前を眺めると煌々とした金色のライトが1点に向かって当てられている。胸をはだけさせ、上裸になった踊り子が椅子に座っていた。鍛え上げられた肉体、ゆったりとしてしなやかなポージングに、金髪が正面から照らされ、きらきらと輝いていた。それだけで美しかった。ただのエロいだけの場所じゃないんだ、というかエロい場所じゃなかった。総合芸術じゃないか。

ストリップといえば何を想像するだろうか。どことなく怖いし、そもそも脱ぐことは分かっているけどどこまで脱ぐんだろう、というかそこで何すんの?ポールダンス?というようなイメージ。なんとなくでどうにかなることはこの人生において大体わかっているが、それでも分からないものに突入するのは勇気がいる。

勇気のない皆さんに向けて、流れについて簡潔に説明すると、
音楽に合わせて登場→一曲二曲、踊りを披露→音楽に合わせて服を脱いでいく→身体を魅せつつポージングやパフォーマンス→終了後、客とお喋りや写真会→おひねりを受け取りつつ退場
といった感じ。どの踊り子さんでも大体はこのフォーマットだったと思う。

お客さんは10人くらい。いかにも通い詰めていそうなおじさんもいれば、カップルで来ている人や、女性1人のお客さんもいた。意外と入りやすい雰囲気。

踊り子さんは何か一つアイテムを持って登場する。1人目の方は背もたれのついた木の椅子だったし、和傘だったりもする。そのアイテムを使いながら、妖艶なパフォーマンスを披露していく。
何が面白いって、そのアイテム使いの巧みさである。
椅子一つとっても、その使い方(座り方)は多様である。普通に座るんじゃつまらないから、横から座ってまるで上体起こしをするかのようにゆったりと身体を広げていったり閉じていったり。普段座るのとは逆に座って身体をのけぞらせていったり。横から座るときは艶やかに見える反面、逆に座った時には駄々っ子のようにも見える。椅子一つとたっぷりの時間を使って、こんなにも表現することができるのか。

そうしたパフォーマンスを行ったのち、音楽に合わせて脱ぐフェーズに突入していく。どこまで脱ぐのでしょうか。
はい、全裸です。モロ見えです。というか見せつけてきます。おまんこを。

ただ、ここで不思議なのはやっぱりエロいかと言われるとそれだけではなく、むしろ美しいの方が勝ってしまうということだ。下世話なエロス(裸体)と高尚なる美(ヌード)が共存している、その間(あわい)にあると言えるのかもしれない。でもなぜ、このような感覚に陥ってしまうのだろうか?

①踊り子の肉体美
②踊り子の物語性
③踊り子と客の共犯性
うーんと考えるに、上記の3つの理由が思いつく。

①肉体美

これは言わずもがな。
ストリップのパフォーマンスに、筋肉は不可欠である。
ポージングといっても、ボディービルのように筋肉を見せるわけではない。しかし、「私」を魅せるためには、筋肉は当然必要とされる。
惑わせるほどにゆったりとした肢体の動き、お立ち台でじっとりと回り出す肉体は、それだけでも美しく、感動するものである。
ベテランの踊り子ほど引き締まった肉体をしている傾向が見受けられ、その肉体が「見せ場」となる。歳で勝負できる若い踊り子の方が客のウケも良いというわけでは全く無い。長く続けるには相当の努力が必要であることを実感させるが、その熟練した動きと身体は筋トレに励む男子学生を「すげぇ…」と嘆息させたものだった。

ついでに言えば、女性器を間近で眺められるということがストリップの大きな特色であることは言うまでもないが、その迫力たるや。
3人それぞれの女性器はやはり違うのだなあ…と言えたら良かったが、あそこまで堂々と見せられてしまうと逆に気恥ずかしさが勝ってしまい、そこまでまじまじと見ることはできなかった。そんなウブさも愛してほしい。

この鍛え上げられた肉体と秘部のご開帳は、現象としてはただの裸体を見せつけられるだけの時間に過ぎない。ただそこに美を感じてしまうのは、存在が神聖性を帯びているからではないだろうか。
観客が踊り子を見て思うのは、熟練されたパフォーマンスに対する敬意と畏怖である。自分はそこまでできる訳がないし、続けられるとも到底思えない。この手の届かなさ、「非接触性」が美を生み出すのだとしたら、もはやストリップは伝統芸能であると言える。「非接触性」が美を生み出すという点は、③にも共通する考え方だ。

②物語性

一人一人の踊り子は、物語を持って壇上に出現する。

まず、衣装も様々だ。
1人目はインディ・ジョーンズじゃないけどウエスタンな衣装だったし、2人目は和装、3人目に至っては宝塚のような男装姿で登場した。

彼女らは言葉を発しない。だけど、その立ち振る舞いには物語があり、「私」がいる気がした。そうでないかもしれないけれど。

まあ、どんな陳腐なAVにも前段はあるじゃないですか。演技はどうであれ、そんな物語があって、あるからこそ、情事にスムーズな移行ができると。ただ男と女が交わる、それだけのことでも、「不倫」というストーリーがあると背徳感や居心地の悪さが強調されてより快感が生じる訳です。

ただストリップにおいて、それは取ってつけた物語である以前に、踊り子自身の人間性が強く出るもののように思う。敢えて自身と重なるように仕組んでいるとも言えるのかもしれない。
仮初めでありつつも、その間に「私」「自分」を表現しようとする踊り子に客は拍手を送り、心を動かされるのではないかと思う。

服を脱ぐということは、まさしく虚飾した物語を一枚ずつ剥がして、地をあらわにしようという試みのようにも感じられる。ストリップにおける脱衣の必然性とは、そこにある気もするのだ。

③踊り子と客の共犯性

劇場に入って驚いたことがある。
それは客席と舞台が一体となっていて、とてもアットホームな空間になっているということだ。ここでいう「一体となる」は、比喩的な意味も含むが、物理的な意味においてもそうである。

これがアソコに見えた方は首を吊ってください

とても雑な図を載せたので見てほしい。
道後においての話だが、花道とお立ち台は、客席に囲まれるように存在しており、実際パフォーマンスの95%がここで行われる。奥の舞台は実質存在していないに等しい。
かなりの至近距離で踊り子さんを眺めることができるということがここから分かってもらえるだろう。

踊り子さんにもいろいろな人がいて、話しかけてくれる人も多い。
最後の踊り子さんはそんな人で、パフォーマンスが終わった後に明らかに一見な私たちに向けて「どこから来たの?」とか「大学生?卒業旅行?」とか声をかけてくれた。
他のお客さんもドギマギする私たちを見てニヤニヤ。とてもアットホームな空間が形成されていたと言えよう。
挙げ句の果てには、常連さんらしきおばさまが私たちの手を引いて、花道真ん前の席に座らせてくれた。そこから見る女性(と女性器の)迫力は凄まじく、おばさまには感謝しかない。
皆さん、座れるなら一番前に座るべきです。段違い。

しかし、踊り子と客の間には純然たる見えない壁が存在していることも忘れてはならない。
壁があるからこそ、リスペクトを持って話が出来るし、逆に仲良くなることもできると思うのだ。
「壁」というのは、自分と相手は異なる人間、異なる立場であるということを認識すべきだということである。通常の人間関係でもそうだろう。相手のことを良く分からずに地雷を踏み抜いて痛い目を見た経験はないだろうか。ストリップのような性的空間では、その「壁」はより薄く、脆く、儚い。

先述の「非接触性」は、「壁」の議論に直結して考えられる。
「壁」によって触れられないものは、触れられないからこそ神聖であり、敬意を払え、美しいものである。アットホームな「接触性」と神聖な「非接触性」の間(あわい)に立つ、それがストリップであることを踊り子側も客側も理解し、共犯関係にあるからこそ、この文化は成り立っているのではないかと私は思う。

さいごに

初めはただストリップに行ったことを冗談めかして書こうと思ったのだが、いささか考察めいてしまった。とてもとても反省したい。照明や音楽のことなど、書き足りないことが多いことに今更気がついた。気力が持たないので遠慮させていただく(偉そう)。

ついでに言えば、ストリップは「性的搾取」としての空間でもある。嫌悪感を持たれる人も少なくないだろう。これまでの歴史を踏まえてみれば、何も知らない大学生が「楽しい空間でした〜」などと放言すること自体、問題視されても仕方ないところだと思う。
ただ、実際自分が足を運んでみた感想としては、(出演者も客もある程度、落ち着いた歳のように見えたこともあってか、)節度を持ち、弁えた人間が、娯楽として、覚悟を決めて提供された空間であるという印象を受けるものだった。それはここまで読んできてくださった皆さんなら、分かってもらえると思う。肯定的にしか捉えられない芸術など、高が知れているとも思う。少し勉強してから行けば、また違う印象が得られるのだろうか。
なお、今回の話は道後のストリップ劇場に限った話であることを注記しておきたい。

意外と敷居を跨いでみると入り込みやすい空間である。私のような何も知らない、小心者な純朴青年にも、ストリップ劇場はその大人な魅力を垣間見させてくれた(偉そう)。

現在、ストリップ劇場は首都圏を中心に約20の劇場を残すまでに減少している。いずれ無くなってしまう文化かもしれない、とも思う。
ただ、やはり生身の人間が生身で行うパフォーマンスは、一味違う。
それは落語にしても歌舞伎にしても文楽にしても、J-POPのライブにしても、そうであろう。
その違いがわかる人であれば、十分楽しめるはずだ(偉そう)。

私も道後の1箇所しか行っていないため、まだまだ行くべき場所はたくさんある。
まずは地元の横浜にでも行ってみようかな。

行きは駈歩20分、帰りは牛歩40分

以下は投げ銭を要求するボタンです。泣いて喜びますし、これがフルグラと松屋に化けます。

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