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魔法猫のはなし1

つらいこともかなしいことも起こらない、ちょっとファンタジーな小説です。5800字くらいです。

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 新築の小さい一戸建てに住みはじめて、二週間が経った。
 両親がリタイア後の棲家にと建てた平屋だ。無人になっていた母方の実家を取り壊した土地に建てており、庭付き車庫付き倉庫付きでなかなか快適なつくりになっている。
 とはいえ両親も定年にはまだ十年近くあるので、管理係として私が住むことになった。なんで着工を十年待たなかったのかと言うと、増税前に建ててしまいたかったからとのこと。私は今年で二十五歳だけれども、税だとか公的な手続きだとか、その辺りのことに非常に疎いので、両親を尊敬している。
 母の故郷は、朝とお昼と夕方に音の割れたサイレンが鳴って何の苦情もでないような田舎だが、私が生まれたときから住んでいた父の実家も田舎具合ではまったく同等の立地のため、習慣に関する戸惑いはそれほどない。両親はお見合い結婚なので、当時の事前のマッチング基準では生育環境も加味されていたのだろう、と想像する。
 そもそも母方の祖父母が存命のときから毎年長期の休みには遊びに来て、そのたびお土産を渡しに行っていたので、お隣お向かいとも顔見知りだ。母がそりゃあもう社交的で明るい人なので、その七光りで私も受け入れられている。お寺にもお参りのたびに挨拶をしているので、地域の生活で困ることはほぼないと言ってよかった。

 私がとりあえずの自室として使っている客間には、使用を許可された母のドレッサーがある。今は三面鏡に向かって、極めて儀礼的なメイクの工程を踏んでゆく。下地とリキッドのファンデーションと粉。眉を太くなく細くなく吊り上げすぎず描き、瞼に濃くなく薄くなく塗っていると分かる程度に色をのせる。唇も然り。きちんと感とかいう、出し方も出ているのかも分からない雰囲気を出すための儀式だ。
 なんでそんな儀式を執り行っているかというと、本日これから面接に行くためだ。就活メイクを終えて、リクルートスーツを着て、就活生の頃となにひとつ変わらない貫禄のなさにげんなりする。
 ここに引っ越してくる半年も前に、仕事は辞めてしまっていた。細かい経緯についてはまだつらくて思い出したくないので思い出せないが、大学新卒で入社してしばらくしてから、ずっと思考の中に蜘蛛が這っていた。蜘蛛の捕食のイメージが、常に意識をぐるぐる巻きにしていた。私の中身が溶かされて、吸い出されて、外殻だけのすかすかになる。あれは確かに死だったと思う。
 それでも、今よりもっと世間知らずだったそのときは、仕事を三年も勤めずに辞めてしまったら、蜘蛛に中身を溶かされるよりひどいことが起こると思っていた。結局訳が分からなくなって、訳が分からないまま退職して、半年くらい呆然としたり苦しんだりして、だんだん正気に戻ってきたので、そろそろまた働こうと思えた。想像していたひどいことは、今のところなにも起こっていない。
 この度の就活では、求人情報はネットで探したし、職安にも行った。大学で就活していた頃よりは、募集要項のどこを重点的にチェックすればいいか分かるようになっていた。
 その中で、魔法道具専門店の求人を見つけた。仕事内容は、『魔法商材作成の簡易な補助、ツールを使った受注管理、商品の梱包・発送、一部お客様サポート補助、店内清掃補助、その他付随する事務作業』とある。求人情報を信じるなら、給与も一般的な事務職と同レベルで、休日も多くはないが少なくはない。労働法に触れそうな記載は、見る限りなさそうだった。『初心者歓迎』『軽作業・事務中心なので、魔法の素養は不要です』とあったし、どこにも『魔法経験者優遇』とは書いていなかったので、信じることにして応募した。

 服装と持ち物を確認して、勝手口から家を出る。家と車庫を隔てる小さな庭には、南天とボケと山吹が植わっている。新築工事できれいにする前の庭にあったものらしく、言われてみれば見覚えがある。
 天気が良いので、庭の緑が目に痛い。緑なのに。今から運転をするので目を慣らしていると、木の下の影が不自然に動いた気がした。目を凝らすと、やっぱり何かいる。なんだろうと思うと、猫だった。
 外の猫は構ってはいけないと、存命の頃の祖母に言われたのを思い出した。知らない生き物が、自分に興味を持って寄って来たら怖いでしょう、とのことだった。たしかに。
 猫はこちらを窺うように見ていて、瞳孔がぎゅっと拡大しているのが分かった。凝視してしまって悪かったな、と思って、何となく会釈して車庫に向かった。
 出掛けにちょっと立ち止まってしまったものの、面接まではまだ全然余裕がある。道順は地図アプリの航空写真で何回もシミュレーションしたので、間違わずにたどり着けた。が、まだ早いので一回素通りする。
 だんだん緊張してきた。店は店主一名で経営しているということで、面接官もどう考えてもその人だろう。日程の設定から選考書類の提出まで、一連のやり取りはすべてメールで行われたため、事務的な文面でのイメージしか持てていない。事前に店の名前で検索をかけてみたところ、頻繁に更新している店のSNSは出てきたものの、店主の個人情報はまったく分からなかった。
 まだ少し早いが、許容範囲だと思えるくらいの時間になったので、戻って行って駐車場に入った。建物に対して広めの駐車場の、建物からなるべく遠い位置に車を停める。バックミラーでメイク崩れがないか確認して、入り口に向かった。店というには客を立ち寄らせようという意欲が希薄な建物だ。入り口側の壁に窓はなく、店内はまったく見えないし、ドアに手をかけるのに勇気が要る。心臓が変に拍動するのを深呼吸でごまかして、「PULL」と書かれたドアを引いた。チリリリン、とドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
 少しだけ語尾を伸ばした声がかけられた。この人か、と思う。
 向こうの方も、服装で面接予定者と分かっただろう。
「こんにちは、失礼します」
 なるべく自然に見えるように、しっかりと筋肉を使って笑う。名乗るには少し距離が遠いと思ったので、三歩前進した。あの、と言いかけたところで、向こうが先に声を発した。
「あれ、魔法猫くっつけて来て」
「え?」
 店主、と思しきその人の視線を追って振り向くと、足元に猫がいた。あ、と思う。庭で見た猫だ。
「あ、さっきの……」
「さっき? この周りにいた?」
「いえ、私の家の庭に。あれ? でも、車で来たのに」
 あー、と彼は呟く。
「魔法猫はいたいところにいるからさ。魔法猫、あなた、この人に宿りたいんだな?」
 話しかけられた猫は、信じられないくらいかわいい声で鳴いた。猫の鳴き声だった。
 店主らしき人は、こちらを見る。
「だってさ。断ってもつきまとわれるよ。魔法猫はアレルギーとかないし、爪とぎでその辺のもの壊したりしないし、汚さないし、獣医なんかもかからなくていいから、宿主になってやったら?」
 やどぬし。飼い主ではなく、やどぬし?
「宿主、ってなんですか」
「魔法猫の縄張りになるということ。まあ、うーん、魔法猫にとっては大事にしてくれる下僕というか、イメージとしては飼い主みたいな」
「宿主がいないと、この子、その……死んじゃうんでしょうか」
「死なないよ。えーと、死っていう概念がない。存在したいから存在してて、消えることもあるけど、また存在したくなったら存在する。生物と現象の間くらいのものなんだよね」
 全然分からない。
「ごはんとかトイレとかって、普通の猫みたいなものでいいんでしょうか」
「ああ、いらないいらない。アストラル体に戻って自前で調整するから。金平糖をやると大喜びらしいけど」
 本当に分からない。が、そもそも魔法のことなので、分かるわけはない。世話がいらないことだけが分かった。
「なんで自分で生きて……生きて? いけると言うか、その、お世話は必要ないのに、宿主がいるんでしょう?」
「仮説はいろいろある。けど、はっきりとは分かっていない分野。あなただったらそうする?」
 そうするとは? 分からなくて彼を見ると、質問を補足してくれた。
「病気にならない、衣食住も心配ない、自分ひとりで困ることがないなら、一人で生きていきたい?」
「はい」
 答えてから、ちょっと断言しすぎたと思った。
「あ、いえ。人の作った……映画とか音楽とか本とかは、必要です」
「そう。あなた、面接の約束をしてる人だよね」
 はい、と頷くと、店主らしき人は気が抜けたように笑った。
「やりがいのある仕事が必要です、とか言えないとだよ」
 あっ、そうか。と思った。と同時に少し気が遠くなった。
 そうだ、社会とは、職場とは、求められる回答をしていかなければならない場所だった。本意でなくとも。
 途端になんだか全部、志望動機とか、自己PRとか、これから語らないといけないのかと思って、億劫になってしまった。
「働くのはあんまり好きじゃない?」
「好き嫌いではなく……お金をもらうということは、そのぶん嫌、いえ、大変な思いをするものだと思っているので」
 蜘蛛がちらつく。自分の中の空洞を思い知らされるようで、残った外殻がひび割れるような心地がした。
 なんで私は、偽りなく、好きだと言えるようになれなかったんだろう。
「今も、好きだし、やりがいのある仕事が必要だと言うべきでした」
「正直だなあ。パソコンは使える?」
「ある程度は……。使える、というのは、どの程度のスキルを想定されているでしょうか」
「うーん、エンジニアほど高度な技能は使わない。何をどこまでできる?」
「単純なタイピングと、表計算・文書作成ソフトは使えます。基本的な検索と、調べて分かる範囲の設定と、SNSの基本的な操作もできます。サーバーとか、ホームページ作成運営に関してはまったく経験がありません」
「ああ、じゃあ大丈夫。えーと、じゃあちょっと待ってください。労働条件通知の書類出すから……」 
 えっ、と思っている間にプリンターが動いて、出てきたA4用紙に印鑑が押されて、目の前に提示された。カウンターに座るように促されて、業務内容と、雇用形態と、給与と、労働時間休憩時間と想定残業時間と休日についてと、社会保険と福利厚生その他もろもろの説明をされる。
「以上です。何か質問あります?」
「あの、採用、ということなんでしょうか」
「あ、そうか。そうです。これは内定提示」
 結局、整えていた志望動機は披露していない。
「私でいいんでしょうか」
「あなたがぴったりだと思う。魔法猫に好かれるということは悪人ではないし、魔法的なものとの相性も悪くないはずだ」
 あなたのお返事は、と聞かれて咄嗟に声が出ないでいると、一旦持ち帰ってもいいですよと言ってくれた。だからその場で、よろしくお願いします、と頭を下げた。
「あの、店長……さんってお呼びしたらいいですか。あ、えっと、社長?」
「あー。そうか、呼び方が必要か。店長と言っても、ここほとんど店としては稼働してないんだよな」
 今はネットが主流だし、うちはB tо Bがメインだからね、と言う。
「わたしのことは、魔法使いと呼んでもらえたら一番正確かな」
「お名前は、伺わない方がいいですか」
「うん、魔法使いだからね。あなたも本名じゃ何だから……」
 魔法使いは、猫に目をやった。猫はいつの間にかカウンターに上ってきて、興味深そうに労働条件通知書の匂いをかいでいる。
「宿主さんでいいか。いいですか?」
「いいです」
 なんでも。と思いながら頷くと、魔法使いは口角を上げた。
「はい。じゃあ、よろしく宿主さん。いやあ、はじめての雇用契約だ」
 と言いながら、雇用契約書その他もろもろの必要書類を印刷している。
「その魔法猫とも契約をしてあげるといい。手続きとしては、名前をつけるだけ」
「ああ、そうか、名前……なんでもいいんでしょうか」
「別に決まりごとはないよ。あなたが呼ぶだけの名前だから、好きにするといい」
 それはむしろ困ってしまう。命名の経験なんか、小学校の飼育小屋のウコッケイをトリ美と呼んでいた程度だ。ネコ美……。
 困っていると、書類一式を封筒に入れて、魔法使いが戻ってきた。
「金平糖をあげよう。食べさせてみるといい」
 ガラスの瓶を軽く振ってから、蓋を開ける。
「手を出して。たぶんあなたの手から食べるよ」
 言われるままてのひらを出すと、その上で容器が振られ、三粒が転がり出る。猫はすばやく顔を寄せてきて、匂いをかいで、金平糖に口をつけた。カリポリカリポリ音がする。それから味わっているのか、ちゃむちゃむと口を動かす水音がした。
 三粒ぶんのカリポリちゃむちゃむを黙って聞いてから、満足そうに口元をなめている猫の背中にふれる。ものすごくふかふかしていた。
「これって、金平糖、適量はどれくらいなんでしょう」
「まあ一日十粒くらいかな。あんまりやると太るんだって」
 背中に触れても嫌がらないので、両手で小さな顔を包んでみた。嫌がらずに、目を細めている。あまりに小さな骨格が、ぐっと心臓に刺さる感じがした。
「ちゃむ」
 複雑な色の猫の目を見て言う。
「ちゃむちゃむ食べるから、あなたの名前はちゃむ」
 この猫は、こちらの言う意味が分かるのだろう。また信じられないくらいかわいい声で鳴いて、鼻先を私の顔に近づけてきた。濡れた鼻が私の鼻に触れたとき、目の前で、ぼやっと光が浮くのが見えた。
「ああ、契約成立だ。おめでたいね」
 全然気持ちのこもらない拍手をもらって、封筒に入った入社書類ももらって、今日は終了ということになった。帰りのちゃむは、車の助手席でじっと座っていた。途中でスーパーに寄って、食料品と金平糖を買った。
 家に帰ってから、ちゃむに金平糖を七粒あげた。七粒ぶんのカリポリちゃむちゃむをじっと聞いていると、すかすかしてなにもかも流れ出るままになってしまっていたような私の中身に、隅々まで何かが行き渡って、ぎゅっとかたまる感じがした。
 自分に重さが戻って、急激に人間に戻った気がする。家が静かだと、いまはじめて思った。
 脇に置いた封筒に触れて、その質感と、重さをいまやっと思った。この書類の持つ希望。社会、職場という――私が、生きてみたくて、生きてみて、死んだ場所。そこにまた、生き返って戻れるということ。
「ちゃむ」
 ちゃむの咀嚼音は、記憶の中の蜘蛛を砕く。このかわいいものは、私が恐れたなにもかもをやっつけてしまえると思えた。
「ちゃむ、かわいいね」
 ちゃむは金平糖を食べ終わって、ぐるぐるごろごろ鳴っていた。


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