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新潮社と生田長江・春月師弟

 近代出版史の基礎文献のひとつで、ずっと前に読んでそれっきりにしていた『新潮社七十年』。この前安く古書店に出てたので一応ゲットしておいたので、数年ぶりに通読してみる。必要箇所はデータ化しておいてあるので特に必要はないかと思っていたのだが、どうしてどうして。数年前に読んだときより頭に入ってる周辺情報が増えているので、結構面白く読める。

 創業者・佐藤義亮のことも含めて、社史にしては中立的な筆致なのだが、やはり本当にマズいあたりはカットしてあったりするのが面白い。

 さて、これを読むと、戦前の新潮社と鳥取県人脈の関わりの深さが、かなりはっきり見えてくるのである。

 もっと言えば、出版社としての新潮社の基盤づくりは、かなりの部分、鳥取県人脈に依存しているのである。

 昭和のはじめくらいまで、『新潮』という看板雑誌は基本的にずっと赤字であり、新潮社は単行本で利益を出していた。特に翻訳物と、普及版の文庫でもうけを出し、円本ブームまでの段階で出版界の中心的な地位を確保していたのである。講談社に大きく水をあけられた雑誌ブーム時代を乗り越える資本は、これら単行本によってもたらされていた。

 また、単行本が軌道に乗るまでの間、経済的に新潮社を支えていたのが『文章講義録』である。この雑誌には文章添削券が添付されており、作品を郵送すると文章の添削・仮名遣いの訂正と批評が帰ってくるという、通信教育的な仕組みが好評だった。

 この二つの事業の中心にいたのが、生田長江・春月師弟である。

長江訳のダヌンツィオ『死の勝利』の大ヒット(大正二年)は、新潮社が翻訳出版社としてブレイクするきっかけとなり、後にドストエフスキーやヘッセの名著を普及させる基礎を作った(皮肉なことに、長江が『資本論』の翻訳を同郷人福光美規の経営する緑葉社から刊行したときには、新潮社は高畠素之の訳書を刊行することになったが)。

長江の場合は、超人社時代に佐藤春夫・生田春月を寄宿させ中村武羅夫・加藤武雄をはじめとする若手文学者のネットワークを構築した点、また社会運動に取り組む堺利彦らのグループと有島武郎ら白樺派の関係を深化させる役割を果たした点など、これまであまり評価されていないが、近代文学史/文化史上の役割はかなり大きいが、新潮社はその足場として重要な役割を果たしていた。言い換えれば、長江の活動の恩恵をもっとも被っていた会社の一つなのである。そして、もっと俗なで直接的な話をすれば、島田清次郎『地上』を紹介することで新潮社に莫大な利益をもたらしている。文学史的評価が低く、華族令嬢誘拐事件などのスキャンダルの果てに精神病院で亡くなった島田清次郎を知る人は現在では少ないが、『新潮社七十年』でも一節が割かれていて(これは国木田独歩なみの扱い)、経営上の島田バブルの恩恵は忘れることができなかったことがよく分かる。

『文章講義録』の方は、生田春月がずっと添削を担当しており、地味ながらその貢献度は大であった。生田春月は詩集やハイネの翻訳でもヒットを飛ばしており、文壇的評価の低い『相寄る魂』でさえかなりの部数を売って新潮社に貢献している。春月は昭和五年に自殺し、その後佐藤春夫一派によって意図的に抹殺されてしまったが、そうでなければ中原中也や萩原朔太郎に影響を与えた現代詩の先駆者の一人としてもっと知られていただろう。

この二人を中心に、尾崎翠のように、新潮社を足がかりとして活動した県人も少なくない。

新潮社の明治後半から昭和初期までの動きは、文学~文芸と出版産業の力関係の変化を知る上で格好の素材であるが、そのターニングポイントには生田長江がいて、生田春月が地味ながらいい仕事をしてそれを支えていた。

皮肉にも、この二人は関東大震災後の完全な主客逆転の流れ(産業としての文芸出版の、非産業としての文芸創作への優越)にはむしろ追従できず、昭和十年までには存在感がとても薄くなっていく。芸術活動の産業化に貢献した結果、産業化しすぎた芸術活動から振り落とされた、ということだろうか。

(2012.7.29)

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