オーバーライド智恵子抄

(注:2011年当時の深夜アニメ状況などが織り込まれているため、現在となっては的外れな部分あり。実験的テキスト)

 高村光太郎の、晩年近くの「智恵子」テーマの詩は、遍在するミューズとしての智恵子との関係性を詠ったものである。

 すでに亡くなってひさしい智恵子という実体と対話することはできないから、これは光太郎の脳内に実在する智恵子との対話である。 その対話は光太郎にのみ可能であり、智恵子は光太郎に託宣を与えているようだが、光太郎は預言者として振る舞っていないので、その内容は外部には分からない。

 しかし智恵子は実在し遍在し、世界を満たしている。

 もちろん、光太郎のこの表現は、メタファとして捉えるべきものである。

 しかし、あえてそうではなく、ライトノベルばりに「状況描写」と捉えたら、どうなるだろうか?

 光太郎の前から消え去った智恵子が、それによって世界に遍在するようになったとして。そして、光太郎だけが折に触れ智恵子の存在を感じることができ、智恵子とともにあることを実感できるのだとしたら。

 智恵子は一種の元素、一種の法則、一種の神として世界に溢れていることになる(それは、高村光太郎にしか応えず、高村光太郎にしか関知できないのであるが)。

 すでにネット上で数多く指摘されていることだが、このモチーフは、近年の漫画やアニメーションなどに比較的多く見受けられる、ある種ありふれたものである。

 おそらく首藤剛志の小説版『バース―または子どもの遊び』(1984)あたりを端緒として、80年代~90年代に、この領域でフォーマット化されたのではないだろうか。

 『バース』の場合、もとになった金田伊功のアニメは、動き回るばかりでストーリーがほとんど理解できないような代物だったが、首藤の小説版は、バース世界の創造主であるアーリアの死と復活の物語に書き換えられている。

 ありがちな女神風のキャラクター(松本零士のメーテルなど、この段階でもすでにストックキャラクターが存在していた)であり、本来狂言回し的立ち位置のキャラクターであるアーリアに物語を背負わせることで、首藤は主人公・ナムたちの無限の追いかけっこに意味を与えたのである。死にゆく子供でしかないアーリアは、(電子ネットワークで作られたものとはいえ)世界と一体化することで生き続け、アーリアの中でナムやラサたち、ストーリーの担い手たちは生き延びていく。

 余談だが、メタフィクショナルな設定という意味でも、この作品は記憶されていて良いのではないだろうか。『時空の異邦人』といい、首藤はよくこんな難解な脚本を当時アニメにもちこんだものだと思う。

 士郎正宗の漫画を原作とする『攻殻機動隊』(1989~)にも、似た状況を描いた場面がある。

 押井守監督による映画化やテレビアニメ化もされた人気作品であるが、原作・映画第1作のエンディングはまさに草薙素子が(智恵子と同様に)世界に偏在する存在に変化したところで終わるのである。

 ただし、原作では、同僚のバトーは、素子の昇華の場に立ち会いながら、傍観者としてそれを眺めるだけであり、「ゴーストと機械」というテーマの方が強く出ている。ここでは、草薙素子はたまたま女性という設定がなされているに過ぎず、代わりに、機械的な冷徹さ、論理的なドライさが表面に浮かびだしている。状況は類似しているが、光太郎の詩にあるような、男性から女性への信仰の匂いは希薄である。

 それに対して、押井守の映画版では、わずかな改変によって、バトーのつよい恋慕の情が(抑え気味の表現だが)前面に出てきている。押井は士郎正宗の原作の根幹的なテーマを、自分自身のテーマに読み替えており、この場面の意味を変質させ、光太郎の詩に近づけてしまっているのである。要するに、映画版では、原作のSF的なモチーフが、SFの形を借りた女性信仰的なものにシフトしてしまっている。

 首藤の『バース』の世界もコンピュータネットワークでできているという設定であり、『攻殻機動隊』と期せずして同じような方向性を示している。『バース』では「現実」のアーリアは死んでしまって「ネット」世界しか残されていないが、『攻殻』では「ネット」という素子の世界と「現実」というバトーたちの取り残された世界が併存しているという点で、大きな違いはあるのだが。

 比較してみると、構造的には『バース』より『攻殻』の方が、「智恵子」に近いことが分かる。愛した女性が、世界そのものになってしまう。ふれ合うことはできないが、一方、いつ何時どんな場所でもふれ合う事ができる存在になってしまう。

 映画の続編として作られた『イノセンス』は、その後のバトーと素子を描いているが、そこでは、バトーの危機に素子が「降臨」するという形で、このモチーフがなんの衒いもなく直球で描かれている。

 力関係は逆転しているが、草薙素子とバトーの関係は、智恵子と光太郎の関係に非常に近い。

 バトーがリードするような関係性であったら、『攻殻機動隊』は全く異なった話になっただろう。

 草薙素子は、あるべき姿の智恵子である。

 草薙素子は一見智恵子と大きく異なった存在のように見える。公安9課という特殊部隊(公安というよりは傭兵部隊のように見える)のリーダーであり、全身サイボーグの彼女の本当の姿は誰も知らない。

 女性型のサイボーグである点を感傷とみる視点は押井守の映画版には顕著だが、それも素子本人の告白ではなく周囲にいるバトーという部下の指摘である。

 草薙素子は、とある事件で伝説のハッカー、「人形使い」と出会う。人形使いは、実は人間ではなく意志をもったプログラムだった。

このタイトルの最初に触れたように、智恵子抄は実はディスコミュニケーションの詩であり、高村光太郎の一方的な礼賛と、智恵子という実在の人格への無理解の物語である。

 このこと自体は、実はかなり早い段階から指摘されている。

 辛辣だが代表的な批評の例として、平井基澄の次の言葉をあげておこう。

「光太郎は現実の人間的欲求を持たない面でのみ智恵子を要請しているのである。「おそれ」では、「いけない、いけない」に光太郎の感情のすべてがかかっているが、相手を理解しようとする態度は微塵も見えない。……彼は自己の立場を確立するために、智恵子の欲求を受け入れるだけの余裕を持たない。けれども彼の求める伴侶は逆に彼を全面的に受け入れる人でなければならない。……智恵子は人格の所有者としてはあまりに無理な要請をされている」(『智恵子抄試論』(1964)、日本文学協会)

 これは、「智恵子抄」の読解としては、外しようがないものであろう。だから、光太郎と智恵子の関係を視点にする限りにおいては、次のような読みから逃れることは難しい。

「光太郎は智恵子を「永遠の女性像」と考えていました。素晴らしい言葉で彼女を誉め崇えたのです。「神の造りしもの」だと考えていたのです。しかし、これは光太郎が造りあげてしまったものであって、「永遠の女性像」に智恵子をはめ込もうとしたと思うのです……智恵子の方としても、それを崩してはいけないと思うのは当然です。……そして智恵子は狂ってしまった。」(水子俊江「「智恵子抄」における光太郎の心情」、『学海』6号(1990)、上田女子短期大学)

 こんな関係を受け止めてまで光太郎を愛し続けた智恵子の物語が別のラインとして構想されることはあっても、「智恵子抄」はやはり孤独な魂の一方通行の愛の形を示している。最初に述べたように、光太郎が智恵子を美化すれば美化するほど、その断絶は深まっていく。光太郎の中で智恵子が女神になればなるほど、独立した人格であった智恵子との距離は遠ざかっていく。

 このモチーフは、どういうわけかとても現代的である。

 智恵子は実在したから狂ってしまったが、実在しない女性だったらどうだろうか?

 あらかじめ失われた女性であったらどうだろうか?

 「相手を理解しようとする態度は微塵も見えない。……彼は自己の立場を確立するために、智恵子の欲求を受け入れるだけの余裕を持たない。けれども彼の求める伴侶は逆に彼を全面的に受け入れる人でなければならない」ような(私たち男性の大多数にとって)、これほど都合がいいことはないだろう。

 実在するアイドルは、画面で見る限りは都合の悪い人格をもたないが、実際には個人として独立した人格であり、スキャンダルのような形でいつ私たちを裏切るかわからない。その不安定さに耐えられる程度の「余裕」があれば、このレベルに踏みとどまり、いずれより近くにいる「人格をもつ女性」を理解する方向に進むこともできるだろう。

 ある物語のキャラクター……漫画であれ小説であれゲームであれアニメであれ……はどうだろうか。

 これらは当然、人格をもたないから、それ自体は裏切ることがない。しかし、「作品」はどんなものであれ他人が造るものである。クリエイターは、独立した人格を持っている。だからやはり、裏切られることもある。

 深夜アニメやライトノベルのように、マーケティングに基づき、慎重に受け手を裏切らないように造っているものでさえ、何かの間違いで(製作サイドの能力だったり工期だったり予算だったりするのだろう)受け手の思いを裏切るのである。受け手の数だけ望みがあり、そのすべてを叶えることが原理的に不可能である以上は、常に誰かは裏切られていることになる。

 その裏切りの痛みは、口汚い「アンチ」の言葉として、ネット上の掲示板に垂れ流される。それは、裏切りを責める言葉であるとともに、裏切りの痛みに耐えられない者の悲鳴でもある。

 ネットで高い人気を誇る『東方プロジェクト』は、この点でうまくツボに嵌まっているといえるだろう。シューティングゲームにルーツをもつ『東方プロジェクト』は、キャラクターと設定のみがあって物語が公式には定められていない。ゲームと音楽とキャラクターが作品であって「物語」ではない。その意味では、好き嫌いはあっても裏切りの嫌悪を向けられることは少ないと思われるからである。

 『らき☆すた』『けいおん!!』といった、特に物語らしい物語がない、エピソード記憶のようなアニメ作品が、深夜アニメのファンの人気を博す背景にも、同じような「裏切られなさ」があるように思える。

 ライトノベルや深夜アニメのキャラクター、ストーリーのテンプレート化についても同じような印象を受ける。一見「突拍子もない設定」ですら、「突拍子もない設定というテンプレート」になってしまっている。

 また、そうでなければ、裏切りの代償を覚悟しなければならない。たとえばそれは、作品の売り上げの悪化という形で代償を支払わされるということである。

 個人的表現である小説ならばまだ作家の個人的覚悟で済むが、アニメやゲームのような、集団作業でつくられる商品については、それを受け入れる会社は皆無だろう。

 このようなメタレベルでの受け手の姿勢と、作品としての「女性の女神化」は、リンクしているかどうかわからないが、相似してはいる。

 作り手の「女神」も、受け手の「女神」も、同じ穴の狢である。

 極端な美化からは、「相手を理解しようとする態度は微塵も見えない」。理解できないから賛美する、のである。

 話は戻るが、『攻殻機動隊』では、左脳的な理解の範疇に収まっている原作版は草薙素子を賛美することなく静かに終わり、叙情的な要素の強い押井守の映画版はバトーを通じて素子への賛美を描いて終っている。

 士郎正宗の、メカニカルで非人間的で中性的な視点で描かれていた『攻殻機動隊』を、押井守は、人間的で男性的な視点の、コンベンショナルな物語に変換しているのである。

 だからこそ、押井の映画版の画面や世界観の圧倒的なクオリティは、鼻につくことなく受け止められたのである。

 だから、この物語構造は、基本的にはどこまでいってもディスコミュニケーションの物語である(士郎正宗の原作『攻殻機動隊』は、コミュニケーションを単なる情報交換とほぼ等価に描いているので、若干違うが)。

 ところが、この物語構造を逆手にとって、コミュニケーションの物語をやってしまった作品がある。やってしまった、というより、結果的になってしまった、という方が正確かもしれない。

 それは、ごく最近最終回が放送された、「魔法少女まどか☆マギカ」である。

 この作品では、男と女の物語が、少女と少女の物語に転換することで、ディスコミュニケーションの物語が、コミュニケーションの物語に反転してしまっている。

オーバーライド智恵子抄 智恵子と素子と鹿目まどか(4)

 さて、『智恵子抄』をはじめとする「ディスコミュニケーションの物語」と構造を共有しながら、「コミュニケーションの物語」になって「しまった」のが、2011年に放映されたアニメーション『魔法少女まどか☆マギカ』である。

 この作品は、周知のように、原作無し深夜アニメーションとしては異例のヒット作品である。監督の新房昭之は市川崑に強く影響を受けた、現在のアニメーションでは作品性を強く打ち出す人物であり、制作会社であるシャフトもその特性をよく活かすことのできる会社である。大ヒット作となった西尾維新原作の『化物語』はもとより、『さよなら絶望先生』『ひだまりスケッチ』『それでも町は廻っている』など、商業的に必ずしも大成功とはいえない作品群においても、その作家性は際立っている。根強い人気をもつ『魔法少女リリカルなのは』の最初のテレビ作品の監督でもある。

 新房監督を軸に、脚本家に18禁ゲームライターで独自の世界観を持つ虚淵玄、キャラクターデザインに、コロコロとしていながら(いわゆる「ぷに絵」でありながら)どこか「女性性」を匂わせる絵柄でカルト的な人気をもつ蒼樹うめを配置した本作は、下馬評がさほど高くなかったにも関わらず、オリジナル・アニメーションとしては記録的なディスク販売数を記録するなど、2011年の大人気作品となった。放映中に東日本大震災の大きな被害があったことを考えれば、記念碑的人気作品だったといえるだろう。

 もちろん、作家個人の、しかも編集者の関与が薄い分小説などよりはるかに個人的営為である高村光太郎の詩と、原則流通商品であり、しかも多数のクリエイターの共同作業で生み出されるアニメーション作品を同列に考えることはできない。アニメーションやゲームは、クリエイター間の解釈と表現の反復という共同作業によって形づくられているから、個人の資質のみが明示的に反映されたものとは言いがたい。方向性を決める監督や脚本家など、強い色を示すメンバーが存在していたとしても、決して彼らの作家性が直線的に示されたものではないからである。

 これは、宮崎駿であれ押井守であれ富野由悠季であれ変わらないし、実写でもアニメでも変わらない。キャラクターデザインや声優の演技、音楽、編集、実際の作画、すべてのチューニングが計画通りにできるとは限らない上、計画通りであっても市場が受け入れない作品になってしまう場合もある。

 結局は、映画やアニメーションやゲームは、製作段階からコミュニケーションの芸術なのである(程度の差こそあれ、評論や小説やマンガも作家と編集者、編集者と読者、作家と読者のコミュニケーションの芸術なのだが)。ある場合には作家だけのための言葉の覗き見のかたちで目に入る「詩」とは、この点が違う。

 ゼロ年代のアニメ批評、サブカル批評では、この点が過小評価されがちなのではないかと思う。文芸批評の方法論を、こういったコミュニケーションの芸術に素朴に適用するのは適当ではないと思われるが、意外に無限定に行われているように思われる。もう少し、主体の問題はナイーヴに考えても良いのではないだろうか。

 「フラクタル」という、これも評価の高いアニメーション監督・山本寛を中心に、原案に東浩紀、脚本に岡田麿里、キャラクター原案に左を迎えた同時期の話題作が販売的にも批評的にも評価を得られなかったのは、内容やコンセプトの問題ではなく、商業アニメーションが根本的にコミュニケーションの芸術であることを等閑視したためではないかと思う。受容者自体が、そのコミュニケーションの外延に存在している現在、制作スタッフ同士のコミュニケーションに支障を来している作品が成功するはずはないのである。東浩紀は理論的にはこのことを知っていながら実装に失敗し、山本寛は知っていながらあえて受容者とのコミュニケーションを拒絶しているように見える。ヒロインであるネッサやフリュネの髪の色の原案との違いは、それを端的に表している。もともと「アニメキャラでしかありえないデザイン」に、「現実性」というファクターを寄与した結果、監督の個性が、スタッフの中で最も強く出た作品となっているのである。東や岸田の色を上書きして、個人的な表現を行ったのだから、山本がこの作品を墓に持って行くほど愛していてもおかしくはない。しかしそれは、商業アニメーションに期待されているものとは違っている。山村浩二のような作家性を最も強く山本に求めていたのは、皮肉なことに山本本人だったのだろう。

 少し脱線してしまった。

 『魔法少女まどか☆マギカ』は、ディスコミュニケーションの物語として構想されている。象徴的なのは、本来魔法少女の最大の理解者であるべきマスコットのポジションに、全く相互理解のできない(妥協はありうる)キュウべえというキャラクターが置かれていることである。キュウべえは、いわゆる悪役ではない。人間と異なったロジックで考える、互いに理解できない生き物である。

 魔法少女たち同士も、適切なコミュニケーションをとることができない。

 すべてを知りながら、「まどかを守る」という目的に頑なすぎて周囲とコミュニケーションをとることのできない暁美ほむら。孤独から抜け出そうとした心の隙を突かれて退場する巴マミ、自分の正義と片恋に固執するあまり、周囲の思いをくみ取る余裕のない美樹さやか、本来コミュニケーション志向が強くその能力も高いのに偽悪的にふるまう佐倉杏子、といった具合にディスコミュニケーションの物語が積み上げられていく。

 唯一主人公の鹿目まどかだけが、極めて受け身ながら、彼女たちとのコミュニケーションを、驚異的な粘り強さで続けている、というのが、この物語の基本構造である。

 したがって、本作において鹿目まどかが「すべての魔法少女の因果を受け止める」存在に昇華されるのは、至極当然の結末なのである。

 ここまでくればおわかりであろうか。本編が暁美ほむら視点で描かれているために、『魔法少女まどか☆マギカ』の結末は一見「智恵子抄」のごとき一方的な神格化と同じように見えるが、実は正反対の物語なのである。

 「すべての魔女を消し去りたい」というまどかのコミュニケーションの志向は、見えない誰かに向けてさえオープンであり、ほむら一人に向けられたものではない。まどか一人だけに向けられていたほむらの思いは、まどかを通じて世界に開かれることになる。だからこそ、ほむらは「戦い続ける」のである。

 それに対して、『智恵子抄』及び一連の智恵子を巡る詩は、智恵子に向かって閉じている。智恵子は光太郎をいきなり世界に直接接続しており、そこにほかの人間の介在する余地はない。

 『智恵子抄』の方がより「セカイ系」として完成されているとさえいえるだろう。

 「セカイ系」の物語は、決して当該年代に特有のものではないし、思春期特有の物語でもない。大正時代の詩作世界にも、老人の光太郎にも共有しうる、普遍的な物語なのである。

 高村光太郎のみならず、近代詩を置く位置を脱構築したり再構築したりするときに、現代サブカルチャーの読解ツールを使ってみること。それによって照射される側面は、かなり豊かなものなのではないだろうか。

(2011.6 Facebookの落書きより)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?