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父の人生を変えた『一日』その51 ~別れ~

その51 ~別れ~
 シアトルタマコ空港には沢山の人がお別れに来ていた。家族はハワイで数日休暇を楽しんで日本に帰ると言う。私は愛犬シャミーと直路直帰で日本に向かった。100人が空港に見送りにきてくれた。全くの驚きであった。色々な事があったアメリカ決して忘れないアメリカであった。我が第二の故郷であったアメリカ。胸が熱くなって走馬燈のように色々な事が思い出され涙が止まらなかった。人生を変えたあの一日が無かったら今の自分は無かっただろうと静かに田舎の少年時代を思い出した。辛かった英語の勉強眠かった少年時代でも、あそこでの英語との出逢いが自分の人生を変えたと言っても過言ではなったと思った。
 「商売に国境無し」
「友情に国境無し」
そして心が結ばれれば肌の色が違っても目の色が違っても世界は一つである更に認識を強く持った。総合商社マンとして木材担当としてやれることはありとあらゆることが出来た。満足感陶酔感で一杯であった。アメリカの軒下を借りて商売が出来た事そして友情に花が咲いた事が一番の収穫であった。
「さらばアメリカ又来るよ」と言って涙を拭いた。
忘れられない「大地アメリカ」最高の国であった。


~倅の解釈~
 約5年にわたるアメリカでの生活。あっという間であった。親父はとにかく小学校時代の夢が大いにかなったことを喜んだに違いない。人生を変える、「あの」小学生時代の一日が無ければ、このような形でアメリカに住むなんてことはなかった。努力で勝ち取った夢。汗と血と涙で実現した夢。
 親父は商社マンという鎧をまとい、商売という武器で最初はアメリカと闘うつもりで日本を飛び立った。木材を「買って来い、勇ましく」と。でも実際には、一生涯に亘りお付き合いが続くアメリカでの友人と巡り合い、私の代までも続く人脈が広がった。何よりも親父はアメリカという国に完全に惚れた。家族もアメリカが大好きになった。
 Liberty「自由」という言葉をこよなく愛する国アメリカ。でもこの言葉には「責任」という表には見えてこないメルティングポット国家ならではの教えも隠れていた。多民族がともに切磋琢磨する、まさしく「合衆国」。ここで我々水澤家が学んだことは大きい。私自身もこの5年間で学んだことはすさまじかった。
 あまりにも、アメリカでの経験が凄く、私自身は中学3年の時に親の反対を押し切ってまたアメリカに単身留学することになる。


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