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父の人生を変えた一日 その17~アメリカでの食事~

その17 ~アメリカでの食事~
 私がアメリカに駐在した時代は、全くアメリカが不況のどん底であった。セクレタリ―つまり女性の黒人事務職員から相談があるという。何かなと思った。彼女曰く黒人はアパートを借りる時に信用が無く月々の支払いではなく毎週に支払えと大屋さんが言っているという。
よし、解った。貴方の月給を今度から毎週支払うと言ってウイークリーペイメントにした。彼女は非常に喜んでいで益々仕事をするようになった。ある時、別の金髪の女性社員の昼食を見てみた。生のニンジンとセロリを切った野菜スティックとパンとバターのみであった。それくらい質素な昼食であった。
「カレン今日は昼食を私についてこい」と言った。中華料理屋に連れ込んで行った。五目焼きそばを食べさせた。3ドル80セント。400円くらいか?彼女はとても喜んでいた。仕事ぶりはこうも変わるのかと思うくらいよく働いた。
 私が駐在してから行きつけになった中華料理店。中国人が経営していたが私が提言でメニューを増やさせた。餃子も高菜そばも焼きそばも柔らかいのから堅いものまで日本人思考に変えていった。お客がどんどん増えていった。中国人は非常に喜んだ。全くアメリカで「日中友好関係樹立」であった。中国人は自分の国に帰ることは考えていないでアメリカで仕事している。その国に深く入り込みそこに根っこを生やし永住の地になる覚悟でアメリカに来ている。中華料理を食べて中国人とも仲良くなりその後、私が中国人と米国で木材の商売をするとはこの時夢にも思っていなかった。


~倅の解釈~
 父が珍しく家にいるときは、家族を良く外食に連れて行ってくれた。いつも自宅にいないから、たまには贅沢な食事にという考えだったのだろう。日本料理屋に行けるのは年に1回か2回。それだけ、アメリカでの日本料理は当時高価だった。Sushi Bar的な店舗が大半で、ほとんどが商社マンや日系企業が接待などで活用していた。水澤家は家計に余裕もなかったため、年に数回の日本食は最高の御馳走であった。高校生の時、留学していた時はSakumaという日本料理屋にてアルバイトさせて頂いた。お金がなかったので、板前の山さんに大変お世話になった。単身留学という私の立場を全面バックアップしてくれた。週末日曜日はご自宅に伺い、お子さまに空手を教えて、夕食を御馳走になった。お金が無くなったときの秘策として、ピュージェット湾で釣りも教えてくれた。ヒラメ、カレイが金欠の時は主食だった。
 家族で一番多く外食したのが中華料理屋。いまだに頻繁にいった、「天津」という店と「Best Wok」という店は覚えている。「天津」では、いつもラーメンを食べた。父が上記に述べている中華料理店である。当時は汁の入った麺は人気が無かったのか、焼きそばか、ローメンという少し湿った感じの焼きそばが主流。ここで食べるラーメンは格別であり、家族の思い出である。
もう一店舗の「Best Wok」はオーナーとオーナーの奥様と大変仲良くなり、私が20代後半の時、アメリカに戻った際にも食べに行った。このお店は家族だけで食べに行った思い出の場所。
父はいつも中国人に関心を持ち、感心していた。世界のどの大都市にもチャイナタウンがあり、中華料理という武器でビジネス展開している。その地に永住する心構えが地域に根付き、受け入れられるのであろう。
とにかく、水澤家がアメリカで外食と言えば決まって中華料理だった。今になって考えるとこれも父の仕事のツールであり、のちにビジネスに結び付ける動きだったことに気づく。

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