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父の人生を変えた『一日』その22 ~新たな挑戦~

その22 ~新たな挑戦~
 アメリカに住み始めても仕事で土曜日、日曜日もなかった。毎日、北の山の検品に行った。そこでは総合商社ではなく中小の専門商社が少しずつ材木を買っていた。小さな会社が材木を買い付けて生き延びている。ライオンは北の山に良材があると感じた。ライオンは今までの決まった輸出港だけでは満足出来なかった。自分の会社だけの材木ストックヤードをもち㈱トーメンの独自の港を開港したかった。誰もやっていなかった商売への挑戦であった。限りない血の出るような努力が必要であった。内地では木材本部が期待して待っていた。そして、そして遂に実現したのである。
 シアトルとカナダの間にアナコーテスと呼ばれる地名があった。そこに㈱トーメンの材木を集め、日本から船を持ってきてアナコーテス港から日本に積み出す。大きな挑戦であった、アナコーテスの港を開港したのである。トーメン独自の港を持った瞬間あった。『大願成就』した感激は今でも頭にこびり付いている。アナコーテス市は私に「honored citizenship」名誉市民の称号をあげようかとも言ってきた。
アナコーテスは町自体が忙しくなってきた。材木を運ぶ人、数量を計る会社、仕分けをする会社、材木を船に積む会社。アナコーテスの町は活況を浴びてきた。町が生き返ってきた。ライバルの総合商社マンは皆、異口同音に『ライオンにしてやられた』と嘆いた。また『さすが、ライオン』と言ってくれたライバルもいた。
1986年、水澤電機株㈱の社員を全員連れてそのアナコーテスの港に連れて行った。思い出の町であった。
そこでさらに皆が驚く事をライオンはやってのけたのである。


~倅の解釈~
 アナコーテス港の㈱トーメン専属開港は私も鮮明に覚えている。開港の記念式典で私が所属する道場にみんなを引き連れて空手の演武をしたからである。
 父は仕事との向き合い方は鮮明だった。全ての事項を疑問視する。特にルートやレールに沿った業務、仕事はさらに進化できないものかといつも問いただしていた。成果が伸びない事業だけではなく成功している事業もそうだった。私が父と仕事を共にできたのは16年間。この16年間で様々な無理難題を課されたが今になって振り返れば父の手のひらで私自身が転がされていた。
「そんなの絶対に無理です。無謀です。」
「阿呆!!やってみなくてどうして無理か無謀かわかる。やれ!!」
父と子の会話はこんな感じだった。何度もこんな会社辞めてやると思ったことか。
一つ例をあげるとしたら弊社の東京営業所閉鎖に伴う社長と専務のやり取りであった。
「業績がひどい。営業所は締めろ」の社長の役員会での一言。
役員からは沈黙。
すでに東京の役員2名からは辞表が出てきており役員会は不在。私はどうしても東京営業所の所員の事があり、納得いかず。
 「納得いきません」と発言。
 「だったらお前、一人でやってみろ。1年間で業績が上がらなければ締める」
こんな会話だったかと思う。結果、営業所の所員は数名辞めてしまい、本社から転勤していた所員は本社へ戻り、事実上一人でのスタート。借りていた事務所は引き払い、自社で所有していたボロマンションの一室からスタート。1年。12か月。その日から死ぬ物狂いで1都6県を走り回った。結果、今や弊社の40%の売り上げを締める大きなマーケットに成長した。当時、業績が急成長している時は自分自身を褒めたたえ酔っていた。冷静に今となって振り返ればこれもまた親父に完全にやられたエピソード。首都圏エリアに大きなマーケットがあるのは誰が分析しても明確。そこで命を懸けて営業をできるか。それだけの事だった。父の故郷、守谷市にて仕事を受注した時の父のうれしそうな顔をいまだに覚えている。東京の商権は父が創り上げた商権なのである。

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