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父の人生を変えた『一日』その30 ~心眼~

その30 ~心眼~
 熱いヒルトンホテルは全米空手大会の表彰式で更に熱気がこもっていた。1987ピーウイーデビジョン優勝者は水澤元博とアナウンスされた。全米チャンピオン。奇跡が起こり感激してホテル中、息子を肩車して走り回った。すばらしい業績戦績であった。翌日の新聞にも息子の記事がでていた。やった やったと神に感謝した。
 その後息子はディフェンデングチャンピオンとして全米各地を転戦歴戦していった。私のボーナスは全てこの大会の旅費に消えていった。そして何年かが経ち今度は息子が全米ナショナルチームの一員としてヨーロッパでの大会(ジュニアオリンピック)に出場が決まった。
国籍が日本のため審議ランプがついたが空手を日本ではしていなくてアメリカの先生の元、始めたことから全米チームとして認められた。
「USA National Team」アメリカ代表チーム背中にUSAの文字を背負ってシアトルからヨーロッパはブダペストに飛んで行った。結果は組手・形、両方とも世界チャンピオン(ジュニアオリンピック)になった。爺ちゃんがヨーロッパ行きの旅費として50万円くれた。息子は幸せ者であった。


~倅の解釈~
 初の全米大会は鮮明に覚えている。ニューオリンズのヒルトンホテル。今とは環境がまったく異なり、ホテルのホールで開催のため、床はカーペット。組手で飛び込むと足がすれてやけどする。形の動きも気を付けないと滑ってしまう。7歳ながら、道場の先生、両親のため、全力で戦った3日間を鮮明に覚えている。当時は大会運営が滅茶苦茶で、形は1日で終わったが、組手は二日間かかった。組手は、ダブルイリミネーション方式採用。1回、負けても、敗者復活戦を勝ち上がれば優勝できる方式。
 決勝戦は形、組手共々、単独で各階級開催される。そこで優勝が決まり、表彰台に向かう途中、親父が観客席から飛び出てきて肩車してくれた。父が私を誉めてくれたのは、週の予選大会で初めて優勝した時とこの全米大会の2回。それ以降は誉められた記憶がない。勿論、肩車の記憶も。
 幼少期、体は小さく、病弱で目が生まれつき悪く。特に目の悪さは父が肝臓の病気をした時の薬の影響ではないかと医師から言われたので、父は気にしていたのだと今になって実際自分自身が親になってみて振り返ると痛いようにわかる。特に私の左目はまっすぐ正面を見ることが出来ないぐらい悪く、いつも矯正するための牛乳瓶底みたいな眼鏡をしていた。
 そんな貧弱な倅が全米チャンピオン。振り返ると親父とよく動体視力を鍛える稽古を家出していた記憶がうっすらとある。ほとんど家にいない親父。でもいると必ずテニスボールを投げつけられよける稽古やおもちゃのバットを振り回し、よける、受ける稽古。
 結果論に過ぎないが、動体視力がかなり鍛えられたことは間違いない。視力そのものも空手道を通じて物凄く回復した。でも何よりも鍛えられたのは「心眼」なんだと思う。見えない分、感じる。心で感じ取る。これは空手道のみならず、社会人として、親として、空手道の指導者として、経営者として、今現在も役に立っている。
 空手道の大会で優勝したことは「いい思い出」ではあるが、それ以上のものを親父が無理やり続けさせた空手道から学んだ。いや、今現在も学んでいる。


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