恋愛と生活苦の狭間で



同棲生活はあこがれだと夢想していた。
社会人になって彼女ができたら一緒に住もうと思っていた。幸か不幸か彼女はすぐにできた。
結婚という心持ではなかったが、とりあえず一人暮らししていた彼女と同棲というところまで2人での話が進んだ。
まだ結婚という段ではないが、一応筋として向こうの親御さんに挨拶はしてくべきだと思ったので、場を設けてもらった。

挨拶の当日、普段から営業職をしていたのでそんなに緊張はしなかった。
相手の実家に行くと相手の母がお茶を振舞ってくれた。一階でお茶屋さんを営んでいる家庭で育った様で、聞いていたよりもおしゃれに感じた。事前に私が行くことを両親に伝えていたようだったが、向こうの父親が1時間経っても顔を見せない。家でも仕事をしているようだったので、待ったが一向に来ないので呼びに行ってもらった。相手の父親は仕事場に来るように言っているようだったので、仕事場に行くと後ろ向きに椅子に座っていた。自己紹介と今回の同棲の経緯を説明すると
『好きにやったらいいんじゃないですか。』と言われた。それでおしまい。
最後までこちらに一瞥もくれなかった。正直こちらの印象は最悪だった。こんなに娘に対して愛情のない父親もいるものなんだと驚いた。
さて、向こうの家に挨拶に行ったので、私は里親に連れ合いを紹介しに行った。あれやこれやを根掘り葉掘り聞くので正直居心地が悪くてたまらなかった。それだけ心配だったんだろうと思う。色々忠告を受けたが、正直一つも頭に残っていなかった。

こちらは社会人2年目、相手は同い年の大学生。世の中、社会なんてまだまだよくわかっていない子ども2人の生活が始まった。

勤めていた会社は正社員とはいえ、国民健康保険、国民年金で住民税も自分で納めなければいけない会社だった。当時でも非合法だったのかもしれない。雇用契約書も無かったし、はっきり言って何にもなかった。たまにお小遣い程度の賞与が配られるぐらいだった。
当時の給料が込々で22万円。労働時間が300~350時間。時給換算:630~730円 ちなみに当時の東京都の最低賃金は740円ぐらい。
普通に考えて別のアルバイトをした方がいい。ただ、社会は厳しくつらいもの1年目2年目ともなればそれはなおの事大変だ。という刷り込みからの先入観があったのと、忙しすぎてプライベートがなくなっていて誰かと交流するという事もなかったので、情報が入ってこなかった。その22万から保険・年金・税金を払ったらいくら残るんだって話も

そんな中で選んだ物件は家賃12万円の西ヶ原の物件。
今考えれば、なんでそんな中途半端なところにバカみたいな値段の家を借りたのか理解に苦しむ。周りの人もそう思っていたのだと思う。ただもう何も言うまいといった感じだった。
2人の口座を作り、そこにお互いが25日までに10万円づつ生活費として入れるという制度を導入することにした。

最初はこの制度が機能していたので、何とかなっていた。
いや、それも勘違いだったかもしれない。

家事は最初は分担してやろうという事になって、ゴミ出し、洗濯、料理、風呂・トイレ掃除等を割り振っていた。
そこまで家事自体は私にとって苦ではなかった。相手のためを思ってやる行為が好きだったんだと思う。

同棲8ヶ月。彼女が突然全く動かなくなった。動けなくなったのだろう。
仕事にもいかない、家事もしない。その時に誰かに相談して、何か策を講じなくてはいけなかったのだろう。

物語はここから始まる。

まず、お金がない。

2人の生活には少なくとも20万はかかると考えていた。
私の手取りはそんなにない。

それでも、そこから4カ月ほどは何とかなった。
そこからクレジットカードのリボルビング払いを使って、何とかしのいでいたが、いつまでも続くものではない。

そこからキャッシング、消費者金融と金を借りた。

時々の自殺未遂・オーバードーズをしては困らされていた。
今日は本当にやばいのではないかと思うと怖かった。だが救急車を呼ぶとものすごく怒られた。

今の生活を改めなければこの先がないと思い、二人で話して、近所に引っ越すことにした。
ただ引っ越しのためのお金がなかったので、社会的養護を支援している団体から30万借りた。
その頃には彼女の症状も少し安定し、バイトに出られるようになった。
家賃も少し出してくれるようになったので、生活はやっていけるようになるかと思った。

しかし、あっちこっちにある借金。滞納してきた支払い。正直、全然生活できるようにならなかった。

夢の同棲生活。どこで踏み外したのだろうか。
どうすればよかったのだろうか。

ある日、会社の社長から最近目が死んでる。営業がそれじゃだめだと言われた。
その週の土曜日、社長にPSFAでスーツを仕立ててもらった。ダサいスーツの奴は仕事ができないと言われた。
会社の人も俺がお金で困っているというのを感づいていたんだろうと思う。

今の生活を変えるすべが見つからないまま、沼の中をもがくような日々が続いていた。

仕事にも生活にも先が見えないまま2011年3月地震が起きた。
みんな電車が動かないので、徒歩で帰ったりしている中、会社には黙っていたがバイク通勤をしていたため、
バイクで帰宅できた。運が良かったと思う。車は全くと言っていいほど動いていなかった。バイクも信号や交通ルールを多少無視しながらではないと前に進めなかった。いつもの2倍ぐらいの時間をかけて帰宅した。
家に帰ると、彼女の部屋が無残になっていた。そして暗闇の中うずくまっていた。
親や家族の無事は確認したかというと、まだ連絡してないとのことだったので、急いで連絡させた。
ガスが止まっていたので、メーターを復旧させると、暖房と温水が使えるようになった。

この先の日本はどうなってしまうのだろうか。
うっすらとそんなことも考えた。とりあえずハナマサが営業していたので、買い物に行くと何も残っていなかったので辛いラーメンを買った。食料の備蓄は多少あったので、あまり心配していなかった。姉の子どもがまだ赤ちゃんだったので、心配して電話したが、無事だという事だった。
土曜日ガソリンがなくなるという事で、ガソリンスタンドに行ったが、最寄りのガソリンスタンドはもうガソリンがないとのことだった。信じられなかったが何件か回ってようやく入れられた。
所要を済ませて家に帰ってYOUTUBEやニコニコを見ると衝撃的な映像がたくさん上がっていた。
週明けからは新規開拓の為に遠方(非被災地)への電話営業が始まった。新しい事だったので、全然慣れていかなかった。
仕事のことなどが段々、彼女に相談しづらくなっていっていることに、この頃気が付いた

少しして、結婚についてどう思っているかを話し合った。

金銭的な現状で今結婚という事は正直考えられなかった。安定には程遠かった。
彼女が結婚をかなり強くしたがっていたのは感じていたが、理解してくれると思った。
しかし、話は平行線のまま1カ月ほど話し合った結果。お互いの道を進もうという事になった。


3週間後、彼女が家からいなくなった。
彼女の荷物を梱包したり、引っ越しの手伝いをしているときには特に感慨もなかった。

家のものはほとんどが彼女のものだったので、かなり広くなった。

自分の引っ越しも控えていたが、何もやる気が起きなかった。

今後の人生でこんな感じでまた同棲することはあるのか。
そんなことを考えながら、酒におぼれていた。

いろんな愚痴は酒で流し込む。失った喪失感に今は浸ろうと失恋ソングを肴に酒を煽るのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?