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どうして政令指定都市の“区役所”と、区役所で行われる各事務を総合的に調整する“市役所のいわゆる親課”の間では、意識の共有が難しく、事実に関する錯誤も多いのか。
政令指定都市の区役所の各事務を総合的にマネジメントする“市役所の親課”にいる職員にとっては、本当に悩ましい事実がこれである。
なんでこんなにも事実は何か!の解釈だけでこれほど多様になるよな!と感心するほどだ。
なぜこんなことになるのか。
まずは区役所各課と市役所の親課が利益相反の関係にあるんではないかというアプリオリな認識があることだ。何かと新しい事業をやれということで国から仕事が下りてくる場合もあり、また、市長が新たに替わった時点で、新たな事業が降ってくることも多い。
このような場合は、新たな仕事をやれというのは市役所の親課で、やらされ感を持つのが区役所の各課になる。
しかも、普通市のように新しい仕事が国から都道府県を通じて降りてくるのではなく、自分と同じ身分を持つ同僚がいる市役所から降りてくる。
そして、それらに係る情報提供や指示は常に1(市役所)対複数(区役所)の構造を帯びていることから、区役所は全ての区で徒党を組んで1つの市役所にクレイムを言いやすい。
なかなか市役所は個々の区役所に出かけて丁寧に説明する機会も持ちづらく、各区役所職員がまとめて出てくる調整会議のようなところで意識の共有を図ろうとすることが多いが、このような会議は対立構造を作りやすいとともに、限られた時間で説明を尽くすことも難しく、かえって誤解を残すようなことにもなる。
SNSではないが、区役所の数が多くなるとそれは烏合の衆にも近くなり、区役所の全てが一つになって誤解を元に炎上するということにもなりやすい。
常に仕事のやらされ感のある区役所では、どのような案件であれ、炎上が勃発する可能性はとても高い。
政令指定都市の区役所は、常に区政改革として、人事や予算獲得に係る権限委譲、区に関するプランの策定やそのマネジメント機能の付与や充実が揶揄される。
区のマネジメントをしようとすれば、区の個性や特性に応じた予算要求、それによる特徴のある事業推進が望まれる。
これらの取組は区役所毎に本来その内容を異にする程度に職員の創造性を必要とするものである。それでも、各区役所は一体的にクレイムを言い、同じような形で事業を実施するような方向に動いていく。
そこに区毎の意識や意思は感じ取れない。
そういったことを容認してしまうと、複数のガバメントに分散して個々のニーズに応えようとする政令指定都市(区)制度は、その非効率な面ばかりが際立ってしまい、その本来の意味合いがどんどん薄れていってしまう。

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