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私の曾祖父 【戦死した曾祖父を追う①】

自己紹介

はじめまして。まっしぃです。17歳の学生です。

私自身、「曾祖父は戦争で戦死した」と聞いていました。

しかし、実際は少し違うらしい。

詳しく調べる経緯から、調べてわかったこと、調べ方を書いていきたいと思います。

経緯

ことの始まりは2023年の元旦に遡ります。

仏壇の掃除をしていたところ、曾祖父の遺品がいくつか出てきました。

「戦死した経緯についての文書」、「勲六等単光旭日章」、「靖国神社へ合祀について」、「日本政府遺族国庫債券」…

現代社会に生きる私にとっては馴染みのない言葉の数々。

しかし、元々歴史好きな私にとって、この史料の山は「何としても解読し、理解しなければならぬもの」

ここから私の調査は始まりました。

曾祖父について

私の曾祖父・牛谷うしたにいさおは、北海道に位置した日魯にちろ漁業(現・マルハニチロ)の会社員で、ロシア語を話すことができたことから、「外事係(対外国の係)」として働いていました。

牛谷功
牛谷功

しかし、1941年12月8日、太平洋戦争が始まります。

その時30歳。牛谷功は旧日本軍の軍属となりました

主な仕事は「通訳」
ロシア語が話せることから日本軍の通訳として働くこととなりました。

(注:現在、軍歴証明書を請求して、具体的な所属部隊・期間を調べているところなので、判明次第、詳細を投稿します。)

1945年8月18日

日本で玉音放送が流れて3日後のこと。
ソ連軍がカムチャッカ半島から千島列島・占守しゅむしゅへ攻撃を始めました。

北太平洋の島々(上原卓 著「北海道を守った占守島の戦い」 p43 より)
北太平洋の島々(上原卓 著「北海道を守った占守島の戦い」 p43 より)

「占守島の戦い」です。

牛谷功はその日、占守島・幌筵ぽろむしる島にいました。

そしてソ連軍との停戦交渉のため、ロシア語通訳として、最初の軍使に随行することになりました。
(軍使・・・交戦中、軍の命を受けて、交渉のため敵軍に派遣される者)

しかし、その道中にソ連兵に撃たれて戦死しました。34歳でした。

戦死した曾祖父を追うため、私はまず、「占守島の戦い」について調べることにしました。


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