インセルと自己責任論、そして格差原理

インセル(英語: incel)は、"involuntary celibate"(「不本意の禁欲主義者」、「非自発的独身者」)の2語を組合せた混成語である。望んでいるにも拘わらず、恋愛やセックスのパートナーを持つことができず、自身に性的な経験がない原因は対象である相手の側にあると考えるインターネット上のサブカル系コミュニティのメンバーを指す。
インセルは、セックスや性的魅力をめぐる競争は生まれたときから公正ではなく、それを認識しているのは自分たちだけだという、「レッドピル(赤い錠剤)」または「ブラックピル(黒い錠剤)」と呼ばれる理論を崇拝している。 多くのインセルは、自分たちが遺伝子のくじ引きの負け組で、為す術がないと考えている。また自分たちをポリティカル・コレクトネスによって不当な中傷を受けている少数派だと考えている。
インセルのコミュニティでは、性的魅力がある男性たちのことをチャド(chad)、チャドばかりを選ぶ性的魅力がある女性たちのことをステイシー(stacy)と呼び、敵視している。

(Wikipedia「インセル」)

谷口は自分がモテない原因は自分にあると考えている派です…
という話ではなく…

インセル
不本意な禁欲主義者というだけでは、"三次元"での恋愛感情がない人ではないというだけで、禁欲主義というよりそういうオタクと区別したいのかな。
そして、どちらかというと攻撃性が問題だ。酸っぱいぶどうとルサンチマンを煮詰めたような考え方だと思った。

個人的にはルサンチマンは、危害を加えなければそこまで悪くないと思う。そもそも感情なので仕方ない。
強者に対する嫉妬や憎悪は努力に変換することすらある(その場合ルサンチマンとは言わないかもしれないが)。これはお得な感情だと思う。
まぁ弱者が強者に対して抱く感情は尊敬だけではないのは確かだ。

酸っぱいぶどう。手に入れられないものの価値の否定。
これはどうにかるタイプの価値判断だと思うし、実際損だと思う。

要は、いじけずに、ナニクソ根性で頑張って、暴力じゃなくて実力で、最悪見返せなくても成長に繋がるならいいやんという意見だ。
理由はほとんど損得勘定。

インセルに当てはめると、「モテるやつがムカつくってのは仕方ないかもね。まぁそいつに当たっても仕方ないから自分が頑張るしかないけど。でも女性嫌悪は損なんじゃないかな」という感じになる。
しかしこれは、要はモテないのは自己責任なので頑張れとしか言っておらず、自分に対してくらいしか使えない。
そういう話

なんでこの話題を考えようかと思ったかと言うと、ツイッターでフェミニストの友人もいれば、反フェミのツイートをよくいいねしてる人もフォローの中にいるようで、その中でこの「インセル」という言葉をよく見るようになったからだ。

「現実の女性に全く意識が向いていない、従ってもちろん加害の意図もないオタク的表現が広告などになり、それが加害の意図に関わらずハラスメントになる。またその中で現実の女性の性的モノ化があったかどうか、促進されるかどうか。逆にそのねじれの中で表現や趣向にモラル的(非公的)な社会規範が作られるか」とかいう話は確かに難しい。

ただインセルとなると話は変わってくる。
モテたいという欲求から、明確に女性のトロフィー化が起き、最悪の場合女性嫌悪が起きている。モテないという悲痛な叫びが加害性を帯びていることでモテなさのスパイラルに陥り、一部が精鋭化する。

しかしインセルに罵声を浴びせることは問題の解決にならない。「お前がモテないからって女性を酸っぱいぶどう化するな」というのは正しい。しかしやめたからといってモテるかどうかはシビアな競争と運の世界だったりする。
泥棒に泥棒やめさせても貧困で野垂れ死ぬだけで、貧困が解決するわけではない。
モテないことは女性への理解が足りないのと同時に苦しみそのものでもある。

先に言った「モテないなら頑張れ。モテないのはお前のせいだ」というのが、貧困で通用するかという話。(アナロジーが暴力的すぎるのは一旦置いといて欲しい)
不平等を思いつくのであれば、それは結局まだインセルの論理の範疇だ。

モテる力は貨幣と違って交換不可能であり、また自由恋愛なのでお見合いのような機会を公平にするという話でもない。(というかお見合いを再分配してもいいかもしれないが)

不平等により、少なくとも完全に自己責任とは言えないモテない人々を救済すること。
甘すぎるかも知れないが、社会の負は社会の負だ。むしろこれからこれを直視せざるを得なくなるのではないかとすら思う。

分配問題としての正義論なので、とりあえずロールズを参照する。

第二原理
社会的・経済的不平等は、(a)正義にかなった貯蓄原理と整合的で、最も不利な人々の最大の利益となるように…

これは正義の二原理の第二原理の前半、格差原理だ。
要は「最も不利な人が得をする不平等を認める」というもの。
例えば、才能のある人の才能を医療に使えば結果的に治せる病気が増えるのであれば、彼らに十分な教育を与えないことより彼らに投資をすることが選ばれる、など。

この原理の優れたところは、平等より自由を優先させた上で平等を扱っているところだ。「格差を認める正義」という逆転の発想で。

インセルの話も、平等を理想としつつ交換不可能で機会均等化不可能な不平等にふてくされて過激化する前に、どんな不平等なら得をするか考えたい。
モテる才能はあまりに利他的な用途がないが、それでも少し考え続けておきたい。

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