徳への道と富への道

富裕な人びと、有力な人びとに感嘆し、ほとんど崇拝し、そして、貧乏でいやしい状態にある人びとを、軽蔑し、すくなくとも無視するという、この性向は、諸身分の区別と社会の秩序を確立するのにも、ともに必要であるとはいえ、同時にわれわれの道徳諸感情の腐敗の、大きな、そしてもっとも普遍的な、原因である。
われわれはしばしば、世間の尊敬にみちた注目が、英知あるもの、徳のあるものに向かってよりも、富裕なもの、地位あるものに向かって、強く向けられるのを見る。われわれはしばしば、有力者の悪徳と愚行が、罪なきものの貧困と弱さよりも、軽蔑されることがはるかに少ないのを見る。
ひとつは、英知の研究と徳の実行によるものであり、もうひとつは、富と地位の獲得によるものである。
一方は、さまようすべての目の、注意をひきつけずにはおかないし、他方は、もっとも研究的で注意ぶかい観察者をのぞけば、めったにだれの注意をひくこともない。
中流および下流の、生活上の地位においては、徳への道と財産への道、少なくともそういう地位にある人びとが獲得することを期待しても妥当であるような財産への道は、幸福なことに、たいていのばあいにほとんど同一である。
上位の生活上の地位においては、不幸なことに、事情はかならずしもつねにそれと同じではない。
この羨望される境遇に到達するために、財産への志願者たちはあまりにもしばしば、徳への道を放棄する。なぜなら、不幸なことに、一方に通じる道と他方に通じる道とは、ときどきまったく反対の方向にあるからである。

(アダム・スミス 『道徳感情論』)

アダム・スミスは生涯に2冊の本しか"遺して"いない。(あとは焼いた)
1冊は『国富論』、もう1冊は上の『道徳感情論』だ。

国富論のイメージからは意外なことに、スミスのキャリアは道徳哲学者としての側面が強い。
だからこそ、スミスが徳と富をどう考えていたかがおもしろい。

たしかに彼は、一般に公共の利益を推進しようと意図してもいないし、どれほど推進しているかを知っているわけでもない。国外の勤労よりは国内の勤労を支えることを選ぶことによって、彼はただ彼自身の儲けだけを意図しているのである。そして彼はこのばあいにも、他の多くのばあいと同様に、みえない手に導かれて、彼の意図のなかにはまったくなかった目的を推進するようになるのである。またそれが彼の意図のなかにまったくなかったということは、かならずしもつねに社会にとってそれだけ悪いわけではない。自分自身の利益を追求することによって、彼はしばしば、実際に社会の利益を推進しようとするばあいよりも効果的に、それを推進する。公共の利益のために仕事をするなどと気どっている人びとによって、あまり大きな利益が実現された例を私はまったく知らない。

(アダム・スミス 『国富論』)

神の見えざる手の中で、エゴイズムを推奨していると言えるか。
というより、スミスが言いたかったことは本当にそうなのか。

それはおそらく違うだろう。
そもそも下流から中流までは確かに徳への道と富への道はほぼ同一と言っている。
それはまずは安心して真面目に働いて、自分の利益を追求することは、公共の利益という道徳と矛盾しないとも取れる。
そして、気取っている"だけ"では不徳と変わらない。シビアだが現実的だ。
(サラスバシーがソーシャルビジネスとビジネスは区別する必要がないと言っていたが、それに通ずるものを感じる)

上流では徳への道と富への道が反対の方向を向く。これは今の感覚で考えると何に当たるだろう。

自分としてはCSRなのではないかと考える。資本主義の黎明期で重商主義と対立していた時代とは、おそらく異なり、今では企業は一歩間違えれば人の人生をめちゃくちゃにすることも環境を破壊することもできるようになった。そこで利益だけを考えないことは、自分は必要だと思う。(スミスはどう言うだろう)

最後に、ふと「経済と道徳」というテーマでもう一つ思いつくことがあった。

それは渋沢栄一の『論語と算盤』だ。
また共通点や相違点を考えたいと思う。

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