見出し画像

通訳の道が見えた瞬間

この文章は、ヤマハ発動機と開催する「 #エンジンがかかった瞬間 」投稿コンテストの参考作品として、主催者から依頼をいただいて書きました。

こんにちは、日伊通訳マッシ(@massi3112

僕が来日して15年目の今日まで色々な困難を乗り越えたけど、今思い返すと大した事がない困難でも当時からすると非常に厳しい事だった。それでも諦めず自分を信じる事ができて今があるのは、僕の強い意志と出会った人たちからいただいた気持ちのおかげだ。

今日は僕が日本語を学ぶことになったきっかけと、その先に待つ困難に直面した時、負けずに情熱を冷ますこと無く今まで過ごせた理由を書いていく。

子どものころから日本の小説が好きだった

10代の頃から少年マッシはとにかく小説を読むのが好きで、イタリアの小説はもちろん日本の小説、日本文学もイタリア語でよく読んでいた。好き過ぎて絵やストーリーを自分でたくさんノートに書いていたのはとてもいい思い出。

当時、イタリアにある日本文学のほとんどは「日本語→英語→イタリア語」の翻訳の流れのものが多く、僕がイタリア語で読む日本の小説は原作とは完全に別物だと感じていた。日本文学を自分の力で理解したい、その思いが「日本」に関わり始める僕の人生の大きなきっかけだった。

大学では日本語専攻で大学院を卒業するまで完全に日本語漬けの生活だった。勉強は難しくて週に2回の日本人教師による日本語の授業以外の時間が大変だった。毎週の授業後に先生に、一週間分の日本語勉強の分からないことをまとめて質問したり、ネイティブと喋れる絶好の機会だから覚えた日本語を使ってみたり、とにかく大変だった。

それと同時にとても楽しかった。日本の小説を翻訳する授業が特に楽しくて、僕が少年の頃思い描いていた本物の日本文学に触れられた瞬間でもあった。

大学時代のことは楽しい記憶もあるけど二度と戻りたくないと思うほど勉強が大変だった。好きで選んだ道だから頑張れた。やっと卒業して解放されたと思ったあの頃の僕に言いたいのは「本物の苦労はここからだ」ということ。

就職してすぐの来日後はさらに苦労の連続で、日本語は読めても文化の違いや日本語のニュアンスを理解できるまで本当に大変だった。この辺りの苦労は他のnote記事に書いたので割愛するけど、なんとか困難を乗り越えられてきた。

通訳者の道を歩むきっかけとなった仕事

そんな僕が改めて日本語と本気で向き合おうと誓ったある仕事が、同時に「通訳者」の道を歩むきっかけとなった。

2006年トリノオリンピックだ。

トリノオリンピック

日本代表の事務的な通訳の仕事で、ほとんど初めての通訳だった。日本代表の方たちはみんなプロだけど、イタリアでは当たり前に言葉が分からず僕に頼ってくれた。二つの国の間に入って、役に立つということよりも違いを感じさせないようにスムーズな会話、行動ができるように毎日魂が抜けるまで働いた。

分からない人、通じない人のために動くことがこんなに大変なことだったなんて、今までが何だったのかと思うくらいに驚いた。同じ地球に住んでるのに宇宙人のように感じているのは勿体無いし、それを解消するために僕がいるんだと自分に自信をつけて毎日過ごした。

ある日、一緒に働いていた日本人がよく「ホウレンソウ」と言っていた。僕はそれを聞いて野菜のことだと思い、なぜ今、食事関係の話をしているのか分からなかった。どんどん会話はチグハグになってきたので「ホウレンソウ」が何を指しているのか聞こうと思った。

分からないことを聞くのが恥ずかしい、という気持ちが当時はあったけど、プロになるには分からないことを聞かずにそのままにしておくことが一番の良くないことだと分かっていた。怖い気持ちをグッと抑えて「ホウレンソウとは何の意味ですか?」と聞いた。

日本人は優しく、「報連相」の意味だと教えてくれて、そこで初めて日本語はこのように長い言葉をカットして繋げて、新たな言葉を生み出すこともできるのだと感動したし、分からないことが出てきてしまった自分に対して、もっと勉強しなくては!というエンジンがかかった。

数日経って少し慣れた頃に、日本代表の方たちにさらにいろんなことを頼られる事が多くなってきた。

二つの国の間に入ることは、文化の通訳をすること

ある日、日本代表の方たちの荷物を運ぶ運送会社の担当者と一緒に、荷物を運んだり場所の確認をしたり、まるで日本の社会に入ったかのように動いていた。日本のマニュアルで日本式の動き方で日本人と一緒にイタリアで働く。当時の僕にとっては、わけわからないマニュアルで異国の文化に入って動くことは、通訳者として働くよりも大変なことだった。

その中で僕が一番意識したことは「ここはイタリアだけどイタリアではない。二つの国の間に入るということは、自分自身に対しても文化の通訳をしなければいけない」ということ。その考え方のスイッチを切り替えた瞬間、とても楽になった。仕事もどんどん楽にこなせるようになり、そのうちに言葉では言われないけど行動で「プロとして認められた」と感じた。

分からないことが出てきた時は自分を許さず、改善、上達ができるまでひたすら勉強した。責任が重くなったことで、より成長のスピードが上がったし、やるべきことを明確にすることで自分の道を進みやすくなった。プロとして認められることで、より自分らしくいられるようになった。

その瞬間が僕にとって忘れられない、通訳者としてエンジンがかかった瞬間だった。

人生にはたくさんのエンジンがある

その後もさまざまな仕事で苦労することになる僕だけど、その時その時に新たなエンジンをかけ続けている。言ったことが訳せなかったり勘違いしていたりして、悔しくてエンジンがかかる。たくさん経験して学んだけど、その先で新たな分からないことに直面した時にエンジンがかかる。

人生で大切なのは、自分のダメな失敗を隠さず出していくこと。それは次のことに繋がるし、経験になる。そこから知らないうちに「プロ」になるのだ。生きている限り困難は次々出てくるけど、怖がらずに受け入れて立ち向かって自分のコンフォートゾーンから出よう。

人生にはたくさんのエンジンがあるから、それをかけるかかけないかは自分次第だ。

僕のエンジンがかかった瞬間は、いまも続いている。

Massi

みなさんからいただいたサポートを、次の出版に向けてより役に立つエッセイを書くために活かしたいと思います。読んでいただくだけで大きな力になるので、いつも感謝しています。