Zing0 第九話

月が疲れる。夜【ニィナグゴ村:憐れ者の巣】


 
 月が疲れる頃になると、先ほどまで地面を揺らすほど響いていた足音は数を減らし、声はまばらになった。燃え盛っていた炎の樹は消え、空になった大きな釜が静かに月を眺めている。
 縄に解れが出来ないかと暴れていたズィンゴは、暴れるほどに食い込む縄を忌々しく睨み、項垂れた。もう一度、被膜を持つヒトの遺体を弄りたいと思っていた。叶わないならせめて、あの場所をもう一度探りたいと思った。頭の中で情景を繰り返し、気づかなかった何かを求めて唸る。
 ふと、格子と雲の間から微かに覗く星を見上げた。
 ズィンゴはその星がどこにある星なのかを知りたいと願った。描きかけの地図を思い出し、まだ見ていない世界への憧れを募らせた。そして、自分で描いた地図を『よくできた偽物』と笑った祖父ニィゴの瞳を思い出し、言葉にならない呻きを吐き出す。
 
「……◆◆◆(笑えない)」
 
 この大陸にある地図を名乗る物は、絵画でしかない。
 水車小屋の壁に飾った絵画は、大陸各地で公式とされる地図。その模倣たち。ニィゴがかき集めたそれらは、いずれも、方位と大まかな位置関係くらいしか合致していなかった。好き勝手な縮尺、現存する建造物の誇張、存在しない地域、異形の怪物。自分たちに都合の良い解釈のみを受け入れて出来た、絵画が信仰されている。
 だが、ズィンゴは祖父ニィゴの地図こそ正しいと思っていた。祖父と同じ方法で、同じ地図が自分に描けるなら、それは誰もが同じように描ける地図だと証明できるはずだ。
 ズィンゴの耳が立ち、瞳を輝かせる。細い指から出した鋭い爪を縄に引っ掛けようと足掻いた。
 しきりに身体を丸めたり伸ばしたりしていたズィンゴの耳が、近くの枝を踏む音に向きを変える。視線だけで音の正体を確かめると、赤茶色に焼けた男が身振りでズィンゴを落ち着かせた。
 
「静かに、ズィンゴ。頼むから、動かないでくれよ。手元が狂ったら、取り返しのつかない事になる」
 
 ズィンゴは押し黙り、男の動きを鋭く睨み続ける。男は震える手で鍵板を外すと、巣に入るなり跪いた。額が割れるほど深く頭を下げた彼は、マーロウから託された言伝を語り、隠し持ったズィンゴの頭巾を差し出した。
 
「マーロウなら大丈夫。俺に言伝と頭巾を託して、今は力を蓄えている。お前と別れた場所だ。お前の脚ならすぐだろう。――それから、マーロウはお前と別れた場所で、クロワモリーの証拠を探すって言っていた。だけど、何を探したらいいのか分からないみたいだった。待っていてくれ。今、こいつを切るから」
 
 男が獣の牙を取り出して縄を切った瞬間、ズィンゴはまとわりついた蝋を剥がすように身体を伸ばし、爪を煌めかせて男の喉を狙い組み付いた。
 
「待ってくれ! まだ続きがある!」
 
 小声だが、確かな叫びにズィンゴの手が止まる。組み敷かれた男は身体を震わせ、歯を鳴らしていたが、ズィンゴを押しのけようとはしなかった。
ズィンゴは男の輝く目を見て、空を見上げると、四肢を伸ばしつつ距離を置いた。耳を振って返事をすると、男の胸を突いて急かす。男は不安を吐き出した。
 
「……最近、キエネトゥ様を湖の近くでよく見る。見たことない、綺麗なヒトと怖いヒトを連れて、小舟に乗っているんだ。キエネトゥ様は、あんなに身体がか弱いのに、見送りまでついていく。聞いても教えてくれない。ただ、尊い彼らを怒らせてはいけない。と、そればかりだ。俺は、最近、あのヒトが恐ろしくてたまらない。あのヒトはよそものと何かを企んでいるんじゃないか。と、夜毎そんな妄想に囚われてしまう。ズィンゴ。お前の喉を癒すから、俺の不安を慰めてくれないか。薬は、ここにある」
 
 男は袖の下を弄り、薬袋を取り出した。男がその中身を明かすよりも早く、ズィンゴは鋭い爪を光らせる。男は額から玉のような汗を噴き出して、薬袋を握るように手を合わせた。
 
「待ってくれ。頼む、爪を引っ込めてくれよ。そいつを見ると、俺は石になってしまう。……マーロウが酒に混ぜたのは、針呑刑で使う毒だ。あれを飲んだら、触れた全てが針で突き刺されたように痛み、次に引き裂かれ、そして、自分の血で溺れ死ぬ。幸い、お前が飲んだ量は少なかったらしい。多くの上等な酒に混ぜた、マーロウの気遣いがお前を助けたのさ」
 
 男は薬袋の中身を手の平に乗せると、小石を拾い上げ、それらを潰しながら混ぜ合わせた。俄かに広がる鼻を潰すほど強烈な柑橘(カーロゥ)と泥の臭いに、ズィンゴは眉間の皺を深め、耳を回した。
 
「我慢しろよ。こいつはこれ以上ないほど強く効くが、どうしようもなく臭い。本来は、俺みたいに熱酒刑で喉を焼かれた奴に使う薬だ。……これでも柑橘を混ぜて楽にしているんだぞ?」
 
 ズィンゴは背筋を伸ばして男の胸を突きかけたが、突き出した指を握って自分の脚を叩いた。ズィンゴは耳を回して男ににじり寄ると、恐る恐るその手を覗き込み、のけ反るなり大口を開けて顔をそむける。
男は混ぜ合わせた薬を手の平ごとズィンゴの前に差し出すと、牙を覗かせる口に向かって押し付けた。
 
「出来た。これを舌で舐め取り、口に含めろ。それから唾をよく混ぜて飲みこむんだ。……そんな顔をするなよ。毒じゃないって言っているだろう。知りたきゃ材料を話すぞ? もっと舐めたくなくなるだろうが」
 
 ズィンゴは憐れむ男の呟きに耳と肩を跳ねさせ、顔を近づけた。ささくれ立った手の平の上で、泥臭い薬が土とも緑とも違うおぞましい色に輝いている。ズィンゴは男の手を取り、耳をしきりに回してから倒した。そして、目を固く閉じ、舌先を伸ばすと、薬に触れて全身を跳ねさせた。
 男は飛び去ろうとしたズィンゴの肩を押さえると、繰り返し穏やかな言葉を囁き、ズィンゴが薬に舌を伸ばすと喜んだ。
 ズィンゴが鼻を握りつぶして嗚咽に耐え、全ての薬を舐め取り、口に含めた唾液とよく混ぜて飲みこむ。舌を焼くようだった痛みが癒され、口の中に潤いが戻り、喉は透き通る風のように軽くなった。ズィンゴは自分の喉に触れ、口を開け閉めする。微かに通る風さえ苦しかったが、その苦しみも吐き出す風と一緒にどこかへ行ったようだ。
 ズィンゴは真っすぐ耳を立て、胸を大きく膨らませた。四肢が伸び、瞳は輝く。泥と蝋で塗り固められたようだった全身がしなやかに動き、心を休ませた。
 ズィンゴは男の前に跪くと、深く頭を下げた。痛みの無い喉を震わせ、取り戻した声で感謝する。
 
「助かったよ。ありがとう」
 
 ズィンゴは知り得る言葉の全てを使って男に感謝しようとしたが、男はズィンゴを立ち上がらせ、憐れ者の巣から連れ出そうとした。
 
「いいさ。その続きは優しい友だちに言ってくれ。臆病な俺にはもったいない。さあ、ここから出よう。マーロウが待っている。四肢を伸ばしたなら、お前は走らなければいけない」
「待って、その前に。勇敢な君の名前を教えてくれないか? それに、キエネトゥ(ケーナトゥ)。――村長の話も途中だ」
 
 男はズィンゴに向かって口を開いたが、言葉にせず、力なく首を振った。
 
「……俺は、お前に会っていない。広場で釜の汁を飽きるほど飲み、上等な酒を三壺も開けた。星が雲に隠れていた頃は眠っていた。だから、マーロウにも、お前にも、会っていない。最近のキエネトゥ様は恐ろしいけれど、俺には、彼に逆らう意気地がない。そのくせ、尊いヒトを怒らせるな。なんて、彼の言葉が忘れられない。俺は愚かだ」
 
 ズィンゴは男の話に耳を寄せて聞くと、太陽に綻ぶ目覚めの花(ロゼティア)のように笑った。
 
≪ロゼティアは細くしなやかで強い蔓を持つ植物だ。花を咲かせる頃になると、赤く小さな花をいくつも咲かせる。それらは毎日夜になると一つの種を実らせ、日の出と共に弾け飛んだ。種は香辛料として使われ、噛み砕くと顎を跳ね上げられるほど痛烈な香りが広がる。村のヒトたちはこの花を寝所に置き、弾ける種で朝を知るのだった≫
 
「そうだな。臆病な君、憐れ者の巣にいた俺は、君に会っていない。キエネトゥ(ケーナトゥ)がよそものを気にしているって話も、聞いていない。なぁう、俺が出会ったのはとても勇敢な男だったからな」
 
 ズィンゴは手にしていた頭巾を、憐れ者の巣の格子に掛け、独り言を呟いた。
 
「これは、その勇敢な男が持ってきてくれた頭巾だ。俺は、せめて耳を隠せと渡されたこれを使った。爪で縄を切り、格子と鍵板の間に頭巾を掛け、鍵を壊して逃げたのさ。彼の不安を慰めるって、約束をしてな」
 
 男は遠くで舞い上がった火の粉を見つけ、ズィンゴの背中を強く押す。男が火の粉の正体を探る間に、ズィンゴは音もなく跳ね、星明りの輝く夜へと走った。
 
 男が火の粉の正体を暴き、憐れ者の巣に近づく。憐れ者の巣は空になり、ズィンゴの頭巾だけが揺れていた。男は頭巾に指先を触れ、その生地の滑らかさに驚き、手に取った。爽やかな香りが彼の心を休ませ、四肢を伸ばし、顔を輝かせる。
 頭巾の隙間から、足跡の意匠を施した首飾りが滑り落ちた。
 男は首飾りを拾い上げ、彼方を見た。だが、そこにズィンゴの姿は見えない。男は首飾りを胸に抱いた。首飾りを服の中へ隠すと、頭巾で自らの頭を覆い、憐れ者の巣で横たわる。
 男は憐れ者の巣の中で、友よ、お前の忘れ物だ。と、首飾りを差し出す夢を見た。
 

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