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「幽囚の心得」第7章              リベラリズムの限界、その内在する問題「見捨てられた人間」は如何にして救われるか(1)

 私が最近頓に思うのは、治者と被治者の自同性を本質とする民主主義の下で、自己統治の自由を実現するためには純粋なリベラリズムだけでは足らないということである。利己的な個人が理性で合意できることを行うのがリベラリズム、即ち、個人主義的自由主義に基づく政治の有り様であるが、このような政治の下では競争に敗れ「見捨てられた人間」を救う手立てに乏しいと言わざるを得ないのである。

 リベラルな社会においては、能力主義システムはその本質的なものであり、個人の自由を追求した個人主義思想の下、全て個人は自己の行動選択から生ずるリスクを負わなければならない。いわゆる自己責任論である。もとより能力主義が正しく機能するためには、機会の平等が公正なものとして確保されていなければならないが、実質的にいかなる条件設定がなされれば正義に適合する公正の実現と評し得るものかは難しい問題である。

 アメリカ合衆国は近代の合理主義、啓蒙主義から生まれた国であり、個人の自由や権利を尊重する、いわば理念に拠って立つ実験的な国家である。このアメリカの主導するGHQの指導の下策定された日本国憲法も、かかる思想に下にあって、個人の尊厳原理(人間の人格不可侵の原理)を根本原理とし核心的価値とする。
 自由の基礎法たる近代憲法の特質を具備した日本国憲法は天賦人権思想に基づく自然権の思想を実定化した人権規定を有している。即ち、「人間は生まれながらにして自由かつ平等であり、生来の権利(自然権)をもっている」のであって、「自律的な個人が人格的に生存するために不可欠と考えられる基本的な権利・自由」は憲法上人権として保障される。
 そして、自由と共に個人尊重の思想に由来する平等の理念は自由と密接に関連し依存し合う原理として近代憲法において不可欠なものである。日本国憲法14条は「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地(家柄)により、政治的、経済的、又は社会的関係において、差別されない」と定めている。ここでいわゆる「法の下の平等」とは、法適用の平等のみならず法内容の平等をも包含し、且つ、各人の性別、能力、年齢、財産、職業、又は人と人との特別な関係などの種々の事実的・実質的差異を前提として、法の与える特権の面でも法の課する義務の面でも、同一の事情と条件の下では均等に取り扱うという相対的平等を意味する。即ち、「平等」とは絶対的・機械的平等を意味するものではなく、また結果の平等を意味するものではない。

 このような自由、平等を基調とするリベラリズムの思想の下にある社会にあって、今日のように知識社会の高度化が進むとテクノロジーのレベルは平均人の適応力の及ぶ範囲を超え、結果、一部の知識層に富が集中していくのは自然の流れとなる。一般的にも、仕事に要求される能力・技術のハードルは高くなってくる。
 かくして、リベラルな知識社会においては、平等理念に即して、労働者はメリットによって選別されることとなった。ここでメリットとは、本人の意思では変えられない「属性」ではなく、学歴、資格、経歴の三つのように、本人の意思に基づき、教育を受け、努力をすることによって向上できるところのその価値(メリトクラシー)をいう。最終的には、メリットによる選別は「メリットを持つ者」と「メリットを持たない者」の格差を拡大し、その分断を進める結果を招来するに至っている。

 以上のように、リベラリズムの思想の下では、「見捨てられた人間」の発生は必然であり、その者を救う手立ても極めて乏しいものとなることが常態である。現代の福祉国家化の中、社会保障による一定のセーフティーネットが制度として整備されているが、問題なのはそれが経済的な意味のものに止まるということであって、人間が生きる実感を充足し得るためのものではないということである。


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