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小説「獄中の元弁護士」(1)       プロローグ~麹町警察署留置にて

 「生き方を変えた方がいいんじゃないか」
 眉間に皺を寄せ、顔を紅潮させて、やや権柄ずくな態でそのように向ける。
 確かに、自分でもそう思わないことはなかった。ここが人生において大きく変わるべき契機となることは間違いない。しかし、そのとき私は不遜にも、その言をそのままに肯ずる気にはなれずにいた。そこには、私がすぐには容認することができない、ある種の価値評価が内含されているように思えたからであった。
 そこまでの意図はなかったとも思える。しかし、私にはこう聞こえたのである。
 「お前の信ずる価値なるものはそれ自体誤りである。我々の長く信じ依拠してきた価値こそが正しいのだ。」
 穿った見方を過ぎたものかもしれない。そうかもしれないが、過敏なる私の精神は対立する一方の価値を否定する、そのような胸奥に存する心気を確かに感知したのである。
 私は驚いたのだった。そうした言を発するには本来、一定の深慮の過程を経てそこに至ることが、そうしかるべきものであると思慮するが、その人間本質的な深淵なる問題に触れた一語はいとも単簡に口の端に上ったのである。少なくとも私にはそう感ぜられたのだった。
 いや、そもそもその時点その時に私が心底に有する価値を声高に述べることについては、その立場にないことは重々承知していたしその気もなかった。これは私の心中の悶着に止まるものでしかなかった。
 私は、三つ並んだパイプ椅子の真ん中のそれに浅めに腰掛け、アクリル板越しに一人の初老の紳士と向き合っていた。初めてその紳士と出会ったのは二十数年も前のことである。私はもうすぐ三十歳を迎えようとしている頃、彼も五十路を真近としていた頃であったろう。だから今、アクリル板の向こう側の傲然と座る彼を初老というにはやや年齢が過ぎてもいようが、彼の面貌は往時と大きく変わるものではなく、敢えて表すに初老という表現が適しているかに思われた。
 彼は相変わらず仕立てのいい背広を身に着けていたが、私は着古したラフなジャージ上下の姿である。アクリル板を挟んで対峙する二人はついこの間までの関係にはない。今は全く対照的な姿を映し出していた。
 所々黒ずみ汚れた灰色の壁に四方を囲まれたこの殺風景な部屋は、警視庁麹町警察署留置係の接見室である。外気から遮断された、古びた庁舎のうちにあるこの空間は、梅雨の最中であることもあり陰湿で暗鬱な気で覆われていた。
 アクリル板の向こう側で座しているのは、かつて私が勤務していた法律事務所の経営者、いわゆるボス弁と呼ばれる立場の弁護士である。つまり私の師匠というべき人というわけだ。私は逮捕の前年に東京弁護士会から除名の懲戒処分を受けるまで、弁護士資格を有していた。



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