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純情: 梶原一騎正伝


怪作ここにあり

なんとか読み終えた。何度、読むのを辞めようと思ったことか。
格闘技を愛する人間であれば不愉快に感じる文章の羅列。特にプロレスに対する偏見は甚だしく、思わずため息が出てくる。アントニオ猪木、大山倍達の描かれ方はひどく、この本を出した新潮社大丈夫か?と思いたくもなる。たぶん大丈夫ではなく諸々問題は起きている様だが、まあ当然だろう。

知人との会話の中でこの本の存在を知った。梶原一騎については知っているようで知らないことばかりだったということで思わず手に取った。

帯にある「徹底取材」の中身

帯には「徹底取材で新事実」とある。はたして取材とは何か?
この本の取材先の多くは反社会的勢力や前言を翻すような業界関係者がほとんどである。また既に引退して昔を懐かしむかのように語る公職者。記憶もあいまいだろうし、思い出を美化するような話もあるだろう。プロレス者はこのようなちゃぶ台返しや美化を『幻想』『ファンタジー』と呼び、あえてあいまいさに身を委ねる。作家の村松友視はこれを「万華鏡」と表現した。みる角度、位相によって見え方は異なり、何が事実なのかはそれぞれが決めればいい。黒澤明の映画『羅生門』のようだ。けっしてノンフィクションであるとは吹聴しない。

この本では始めから答えありきの取材において、違う見え方をする取材対象は不要だったはずだ。「法外な報酬を要求された」から取材できなかったと語り、アンチ取材対象を貶めつつフィルターバブルを被せていくうまい語り口ではある。核心めいた話になると、なぜか叙情的な表現や引用が突然出てきてノンフィクションであるにも関わらず取材の影を感じることができなくなる。

私が思う「徹底取材」

私が思うには「取材」とは、丁寧さがすべてだ。丁寧とは何か。それは同じことを反すうするかの如く訊ね、かつ取材対象を信じ、疑い、シンパシーをもって寄り添うことではないだろうか。
後日取り上げたい福留崇広氏の『昭和プロレス 禁断の闘い: 「アントニオ猪木 対 ストロング小林」が火をつけた日本人対決』で描かれている元新日本プロレス新間寿氏と、この本で描かれている新間氏は同じ人物であるとは思えない。福留氏の本からはあいまいさに対する許容とシンパシー、大げさに言えば愛を感じる。読む者に解釈を委ねる姿勢に書き手の器量を感じ、取材対象へのリスペクトに安らぎを覚える。それこそ郷愁のような感覚だ。読者は一筋のリアルを見出そうと読み進める。そこにこそノンフィクションという分野を成立させるに足る唯一の方法論があるのではなかろうか。
しかし、この本には書き手(主体)が見たこと、聞いたことだけを内省することなく「事実」として断言され、読み手が入り込むスキがない。主体による断言はともすれば思い込みに通じ、事実らしきものから遠くにかけ離れていく。

なぜ取り上げたか

なぜこの本を取り上げたかというと、私に教えてくれた知人はこの本を真実としてとらえていたし、いくつかのブックサイトでも同様のレビューを目にしたからだ。
とらえ方を否定するつもりはない。解釈は読み手に任されるべきだ。しかし筆致、出版社のネームバリューやパブリシティ、プロモーションにより刷り込まれてしまうのは好ましいとは言えず、またフィルターバブルがかかっていることを読み手に知ってもらいたかった。

次回取り上げたい福留崇広氏や『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の増田俊也氏、『真説・長州力』などを書いた田崎健太氏など優秀な書き手はたくさんいる。ぜひ読んでもらいたい。手間と時間を惜しまず、アンチを排斥しない彼らの丁寧かつ膨大な取材には重く響くものがある。福留崇広氏の時間の経過を織り込み、取材対象である書き手の心情の変化を追っていくといった斬新な手法には驚かされた。

この本が出版されたのは2年前。余談ではあるが、本の中で蜜月ぶりをアピールしていた空手団体から現在書き手は訴えられているらしい。YouTubeチャンネルで知りました。





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