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東京12チャンネル時代の国際プロレス(1)


接点がなかった国際プロレス

父親の仕事関係で日本国内を引っ越し行脚していた幼少期。東京12チャンネルは縁がないテレビ局だった。地方ではお目にかかれなかったからだ。当然、国際プロレスも観たことがない。仙台在住時(12~13歳の頃)、学校近くの壁に興行用ポスターが貼られていたのをうっすらと記憶している。金網に流血といったホラー映画のようなおどろおどろしいビジュアル。当時テレビで観ていたカッコいいアントニオ猪木と同じジャンルとは思えなかった。12チャンネルでの放映は1974年に開始されたようなので、ポスターを見かけたのは放送開始後1~2年目の出来事だったと思う。
先日『闘魂と王道 - 昭和プロレスの16年戦争』を読んでおり、こちらが1972~1988年にかけての新日本プロレスと全日本プロレス、いわば表の歴史であるとすると、この本は裏歴史といったところか。裏といっては失礼か。12チャンネルでの放映開始1974年から団体崩壊となった1981年までの団体史が描かれている。自身、学生時代から国際プロレスの内部の人間として時代を共にしていた流智美氏による記録だけに細部に詳しい。

都市伝説、グレート草津

グレート草津もまったく観たことがない。
ただ、この本のなかで他のレスラーから寄せられるグレート草津への辛辣なコメントが、そのクズレスラーぶりを遺憾なくイメージさせてはくれる。
旗揚げ戦でルー・テーズにくらったバックドロップ→失神はプロレスファンには有名な話だが(その後の国際プロレスに暗雲をもたらすかのようなスタート)、その他のエピソードも事欠かなかったようだ。
試合中にアキレス腱を切ったことを隠すかのように「骨折」と発表し、リング設営に問題があったと原因をなすりつけていたのだが、実は試合前まったくウォーミングアップしないのは有名でプロレスを舐めていたとマイティ井上に証言されている。その証拠に試合前にリングコールされ手を挙げたとき、腕時計の外し忘れに気が付いたのは2度や3度ではなかったとの証拠を挙げられている。
その他、ストロング小林へのハラスメント(小便をビール瓶に入れて飲めと強要)や偶然会ったジャイアント馬場への分をわきまえないあいさつなど、都市伝説級のエピソード満載である。本当かどうかはわからないが、同僚とも言うべきレスラーからいろいろな証言が出てきていることからするとそれなりに信憑性は高いと思われる。クズレスラーあっぱれ。この本で確認されてみてはいかがだろうか。

テレビとプロレス

この当時、テレビとの関係は興行会社にとって切っても切れない関係があったはずだ。そのあたりは未読の『テレビはプロレスから始まった 全日本プロレス中継を作ったテレビマンたち』に詳しいのではなかろうか。読んでみたい。
この『東京12チャンネル時代の国際プロレス』では国際プロレスの吉原社長と12チャンネルプロデューサーであった田中元和氏の関係を軸に、田中氏が当時の出来事を手書きでつづったA3判39ページからなる「田中メモ」をもとに流氏は振り返っている。

交流戦、対抗戦

いくつも考察したい視点はあるのだが、ここでは他団体との交流に焦点を当てたい。プロレスでは交流戦、対抗戦(便宜上、「対抗戦」に統一)と呼ばれるが、その多くはどちらかの団体経営がひっ迫するなか行われていたのはファンであれば周知の事実であろう。
高田延彦率いるUWFインターしかり、天龍源一郎率いるWARしかり。対抗戦後しばらくして、両団体とも消滅している。
前述の両氏の関係で大きなカギを握るのが、この対抗戦に対する考え方の相違であった。ここは約半世紀近くプロレスを見続けてきたファンとして肌感覚で実感できるところである。

先日、東京ドームで開催された『武藤敬司引退試合 プロレス ”ラスト” LOVE~HOLD OUT~』を観戦し「他団体との交流」ということに思いを巡らした。コロナもあり3年ぶりの生観戦。大会場にありがちな冗長さはなく引き締まったよい大会だった。武藤の引退については、同世代として610の時代から見続けてきただけにこれはこれで語りたいことが山ほどあるのだが、ノア、新日本、DDT、全日本、東京女子プロレスと実はオールスター戦の様相を呈していた大会でもある。それも各団体の王者同士が直接戦うといった昔ならば考えられなかったマッチメイク。昭和プロレスファンとしては当日までうがった見方をやめられなかったのだが、本当に王者同士の試合が実現してしまったのだ。


(続く)


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