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アートの深読み14・フェデリコ・フェリーニ監督の「8 1/2」1963

フェリーニ「8 1/2」より

 フェデリコ・フェリーニ監督作品、イタリア映画、原題はOtto e mezzo。8.5本目の監督作品だということでつけられたタイトルであることから、自伝的色彩を強く感じさせるものだ。映画監督(グイド)が制作を続けられない苦悩をかかえながら、プライベートとの板ばさみで、ギリギリの状態で命を終える話。イタリア人だとすぐにわかる無駄なおしゃべりが延々と続き、ストーリーを追いかけていれば、破綻をきたすが、論理を超えた即物的な見方をしていくと、見えてくるものがある。

フェリーニ「8 1/2」より

 映画制作にとって監督は、絶対的な存在だが、すべてに目くばせをしていないと実現しない。資金提供者には一目置いているが、俳優との関係では絶対に近いものがあった。鞭をふるって王者のように君臨し、優位にはありながらも、ときには機嫌を取ることも起こってくる。監督には妻(ルイザ)もいるので、愛人や女優との関係を良好に保つのはなかなか骨が折れる。女優のほうでいい役をもらおうとして近づいてくることもあれば、監督がいい役をちらつかせて、言い寄っていく場合もある。とにかく若い娘には目がない(上図)。

フェリーニ「8 1/2」より

 主人公は43歳、俗的な悩みが多く、もう一歩高みに登りたいのだが、ミューズには見放されてしまったようだ。あせりが悪夢を呼ぶ。冒頭はドライブインシネマなのだろうか、密集する車のなかでの、視線を集めての窒息死を思わせるシーンは、何が起こるのかと見るものの目をひきつける。その後の空中を浮遊して落下していくことから、悪夢をみていたのだとわかる。たこあげのように足にはロープがゆわえられ(上図)、地上から引っ張られて、逆さまになって落下するという驚くようなイメージには、病的なまでの強迫観念が浮き彫りにされている。治療に温泉療養も試みている。

フェリーニ「8 1/2」より

 夢の中では親も登場して、父は息子の成功と映画の制作費のことまで心配している。プロデューサーとのやりとりを不安げに聞いている。見送っていくと、父は地面に吸い込まれるように消えてしまった(上図)。戻って母と抱き合うが、顔を上げてみると、妻にかわっていた。親にまで心配をかける切迫感のある夢が生々しく感じられる。

フェリーニ「8 1/2」より

 制作発表をしなければならないのに、まだ何も決まっていないというプレッシャーは、わかる気がする。誰の人生にも何度か訪れる局面だろう。脚本もできていない。制作費も決まり、まわりも体制は整っているのに、監督のイマジネーションは停滞したままで、あせりだけがふくらんでいく。大がかりなセット(上図)を組んだセレモニーに引っ張り出されても、みんなの前で話せる内容はなく、テーブルの下に隠れ込んで、銃で自殺をする姿までみえた。

フェリーニ「8 1/2」より

 リアリズムの映画だと考えれば、解釈は限定される。最後には生き返ったように、パレードを先導する姿(上図)がみえたので、映画制作は本来は楽しいものだったはずである。楽器を奏で(下図)、輪になって踊る歓喜は、人生を謳歌するもので、個人のちっぽけな苦悩を凌駕している。監督は土壇場で持ちこたえて復活できたのか、あるいは監督が死後に目にした、楽園の情景であるのかは定かではない。

フェリーニ「8 1/2」より

 そもそもが映画というメディアそのものが、妄想なのであって、そこに映されているのが、現実であるはずはない。約束事として現実だとみるのか、こうあってほしいという願望であるのか、あるいはこうあってはならぬという悪夢であるのかは、いつも不明のままである。映画をつくるというメーキング映像の虚構を、生身の役者と演じる役者と、彼らが思い描く虚実とが錯綜して、世界に重層的なふくらみを加えていく。フェリーニの場合は、それらは何の説明もなく映し出されるので、みる方は混乱する。

フェリーニ「8 1/2」より

 それは不可解ということでもあるのだが、解釈の自由度を意味するものとみることで、映画は鏡写しになった自身と向かいあって、その魅惑的な存在を証明するものとなるのだろう。映画は50年遅れているとも、前衛映画の悪い点だけを受け継いでいるとも、自嘲的に語られていたが、この映画によって、映画というメディアは、一歩高みにのぼりつめたのではないだろうか。謎めいた映画名、ことに二分の一という部分に、共同制作によって実現できる、孤独を超えた連帯の輪が、希求されているように思う。最後にセットの階段から大勢のスタッフが降りてくるのは壮観である(下図)。

フェリーニ「8 1/2」より

*フェリーニのその他の作品については、こちらを参照。


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