「ひとりだけで生きていく」なんてできない
とある引越し屋さんのラジオCM。
タケシ「オレはこの家を出ていく。引越ししてやる!」
父「お前、なんて親不孝なことを言い出すんだ!」
タケシ「もう盆と正月しか帰ってこないからな!」
母「タケシ~~~!」
20秒の尺だけど、だいたいこのような内容。
家出のシチュエーションでありながら、盆と正月は帰ってくる。こんなコントじみたドタバタ劇はいかにもAMラジオにはありがちで、自分はけっこう好みのたぐいです。
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健康面や家庭環境に特別の問題もなく、スポーツなどにまい進したりとは別の、普通の家庭に育てられた若者の場合について。
ひとりで生活するというのは本人にとっては一つの転機であるといっていいでしょう。
炊事・洗濯などの負荷とは引き換えに、家族とのわずらわしさから解放され自由を手にし、「ひとりの生活」のスタートを切ることになる。
住居探しから始まって、電灯やカーテン、ベッドなどの家具を見繕い、一人に十分なサイズの家電を調達し、近所のお店やサービスの情報を仕入れ、定期券など交通手段の形を整える。
今振り返っても当時のワクワク感はいまだに脳裏に新鮮に残っている。
装いや気分も新たに、まさに「独り立ち」は始まったのだと、意気揚々と高揚感に浸っていたことを思い出します。
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一人での生活を始めるパターンとして、家族との仲たがいや周りからの逃避というのもあるでしょう。
もうこんな生活には耐えられないという感情もあるだろうし、一念発起で生活スタイルを一新、過去を捨てるなんて大きな気持ちの変化が起こした結果かもしれない。
ある程度経済的に余裕があれば誰の力を借りる必要もないし、お金がなくても何とかすると、とにかく一人になることを目指すことも有り得る。
誰にも頼らない。助けなんかいらない。自分一人の力で生きていく!
と。
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人はみなそれぞれ色々で、十人いたら十通りの生き方があると言われるように、人には人の事情というものがあるのでしょう。
だけど「ひとりで生きていく」というのは、経済的に自分でなんとかする、精神的に他人のお情けに触れない、とせいぜいこの枠の中に限定されるはなしではないでしょうか。
人間、自分ひとりだけで生きていくなんて、とうてい無理だと思うのです。
今手にしているボールペンだって、自分でこれを作り出すことはできない。
誰かが作ったものをうまく利用しているだけである。
仮に自分がペンを作るスペシャリストで自力で作ることができたとしても、それを書き込む紙を調達しなければならない。
自分一人で完結しようとするなら、海岸の砂浜に棒で文字なり絵をかくのがせいぜいのやり方となる。
人里離れた山奥で自給自足の生活をしても同じ。
自分で家を建てるにしても、その建材は誰かが切り出して柱なり床にできるように手を加えている。もしそれが自分でできたとしても、誰かが作り残したのこぎりやハンマーなしでは作業が進まない。
調理や食事に使う包丁や器を作るなんてところまで手が回らないだろう。できれば窓にはガラスがあった方がいいし、電気もほしくなる。
知らず知らずのうちに、国の力の恩恵に授かっているものもたくさんある。
道で誰かに襲われたり、持っているものが奪われたり、交通事故にあったりしても、国を抜きにしたら誰にも助けを求められなくなる。
そもそも生きていく上での「場所」を確保することも難しい。
国が機能をしなくなったら、どこかに攻め込まれてしまうことも現実問題としてあるかもしれない。
この国にいたらあまり感じることはないが、世界のいたるところで難民問題が後を絶たない事実が実際にたくさんある。
「誰にもどこにも頼らない」って、治安の問題ひとつとっても無理なことだといえる。
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人間ひとりひとりは、実はできることが非常に限られている。
身の周りにあるものは専門の人が作り上げたわけで、自分ができることはごく僅か、またはゼロである。
いろんな人がいろんな仕事をして、出来上がったモノとかサービスがあちらこちらにできて、それをうまいこと手に入れたり利用したりして、お互いのためになって成り立っている。
さらに、生きていくのに必要なノウハウなんかは、自分の意識しないところで人生の先輩たちに教わって身についている。
アイデアなんていうのは、過去の実績の上に成り立っているなんてよくあることだ。
野生の動物の方が自分だけで生きていくのに長けているだろうし、生命力があるのかもしれない。
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