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「しあわせ」ってよく口にするけど、どういうこと?

「しあわせになりたい」。

ふだん無意識にこころの奥底にひめているフレーズかもしれない。
だれだって「しあわせ」になりたいし、喜びに満ちあふれた生活を送りたいにきまっている。
不幸と幸福のどちらかを取れと言われたら、もちろん後者を選ぶのは火を見るより明らかだ。

「しあわせ」は生きていく中で強い願望であり、目的みたいなものでもある、と理解している。
これが得られれば人生もバラ色であると思ってまちがいないだろう。

結婚する友人には「しあわせになってね」とはなむけの言葉を送るし、
占い師には「いつ頃しあわせになれますか」とすがり、
還暦を目前に「しあわせな老後をすごしたい」と願ったりする。

だが、しかしである。
この「しあわせ」って、いったいどういう状態をいうのだろうか。

結婚して数年も経つとその生活はかわり映えがなくなりマンネリ化を迎えることもあるが、
新婚といわれる時期はホットな毎日を過ごしているだろう。
自分にも身に覚えがある。

なに不自由なく生まれ育ってきた人には、毎日同じような食事が続くと不満を感じることもあるかもしれない。「いつもはけっしておいしくないという意味ではない」と気を使いながら、たまにはおいしいものが食べたいとネットで調べてみたりする。
だがその一方で、食料にありつけるだけで大きな喜びをかみしめる人も世の中にはたくさんいる。

平凡な毎日にたいくつしている人もいれば、
軍事攻撃を逃れながら平和な日々を願っている人もいる。

結婚生活が長く続けば「しあわせ」は減っていくということになってしまうのか。
食べるものに困らなかったり砲撃を受けていない人は、もれなくみんな「しあわせ」を感じているのだろうか。
だったら通勤電車に揺られているおじさんたちや、幼稚園の送り迎えで自転車をこいでいるお母さんたちも、もっと穏やかな表情を出してもよいと思うのだが。

どうやら同じ境遇にいても、そこに感じる幸福の度合いは人それぞれのような気がする。

では「しあわせ」とは絶対値ではなく、他との比較から来るものなのだろうか。

たしかに、
貧しさが周りと同じ程度だったらそれほどみじめさを感じないかもしれない。むかし弁当のおかずが友だちより貧相すぎる恥ずかしさから、隠しながら食べたという話をきいたことがある。

となり近所がみんなそれなりの一戸建てになっている地域で自分だけ物置小屋のような家だったら、見てくれや世間体から負い目を感じるかもしれない。
だが戦後の復興期は周りの悲惨さはみないっしょで、自分だけがみじめだなんて気持ちは生まれていないような気がする。

家主が元気なうちは平穏な生活を送っているのに、いざ亡くなってしまうと遺産相続の問題でいざこざが生まれてしまう。
もともと遺産なんて自分のものではないと割り切ることができたら、いらぬ争いにまきこまれることもなくなる。

かといって、
自分は周りより恵まれているからしあわせだ、と一概にいえるとも思えない。
「あの人の境遇を考えたら、自分はまだしあわせな方だ」なんて言い回しもたまに耳にするが、ただ自分より大変な人と比べて自分をなぐさめているだけのようにも感じてしまう。

物質的に満たされていなくても、精神的に追い詰められていても、心が充実している人はたくさんいるのではないだろうか。

うれしかったり楽しかったり、そんな気持ちを自覚できていると、たしかに「しあわせ」だと感じることはある。
久しぶりに好物のスープカレーを味わっているときや、
待ちに待ったコンサートに興奮しているときなんかは、
まさに「しあわせ」のさなかにいる。

でも、
おいしいものに慣れ親しんでる人は更に興味をそそる料理にありつかないと喜びを感じなくなるし、
コンサートに頻繁に行くことができて貴重な時間と思わなくなれば特に刺激を受けることもなくなるから
こういった人たちは「しあわせ」を感じなくなってしまうということになる。

自分の中に、ある人の言葉が今でもずっしりと重く響いている。

「しあわせとは、感謝すること」

これを自分なりに解釈してみる。

物置小屋のような粗末な家でも、住むところがあることに感謝である。
梅干しだけのさびしい弁当でも、食べるものがあることに感謝であるし、
食べることができる健康に感謝である。

結婚生活を続けてこられたこと、
大きな病気やケガをしなかったこと、
毎日平凡でたいくつができるくらい平和であること、
災害が多いこの国で、まだ被災から逃れられていること、
自分には手も足も普通にあって五体満足であること、
目も耳も健常でことばも普通に話せること、
これら全てに感謝であるし、
他にも感謝はまだまだ語りつくせない。

そして「感謝」ということを自覚することができたら、
それは「しあわせ」を感じられるということにつながるのではないだろうか。

だから
「これからしあわせになりたい」「もっとしあわせになりたい」というのは、
すでに「しあわせ」であることに気づいていないのかもしれない、
と思ったりする。

そういう自分もいつもそれを自覚しているわけではない。
でも悲しいかな理解力が乏しいながらも、そう結論づけたのであった。


目や耳が不自由な人のほうがよっぽどたくましい生き方をしている、
そう感じることがけっこうあるものだ。


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