見出し画像

「助けて」が言えない。

 東京・大田区で3歳の女の子が8日間放置された末に亡くなる痛ましい事件がありました。こういう事件があるときまって「育てられないならなぜ助けを求めなかったのか」という議論が起こります。実際、助けを求めていたら幼い命は救われたのだと思いますし、そうしてほしかったと思います。どんなに言葉を尽くしたとしても人を一人殺めていることに変わりはなく、それは決して許されることではありません。
 でも、一方で、子育てに限らずどんな場面においても、人はとても簡単に「助けを求められない」状況に陥ってしまうようにも思うのです。

 というのも、私自身そうした経験があるからです。
 今から15年ほど前、私が働いていた会社の社長は、日々怒鳴り散らす人でした。
 確かにその人は私にチャンスをくれましたし、一代で会社を上場までもっていった能力の高い人でもありました。激情に駆られるだけあって他方では情にもろいところ、かわいげのある面もあり、少なくとも私にとっては憎めない存在だったと思います。自分の立ち上げた会社だからこそ、必死になるのも十分に理解していました。

 でも、日々怒鳴られて平気か、というとそれとこれとは話が別です。
 会議中、何を言っても言い訳だと怒鳴られ、あまりの剣幕に圧倒された部下たちがすすり泣くのを聞きながら、それでも(どうせ「言い訳」と片付けられるにも関わらず)求められるがまま言葉を発し続けるのはとてもつらいことでした。助けてくれそうな人とは巧妙に引き離され、孤立無援の状態で怒鳴られ続けるのは苦痛以外の何者でもありませんでした。時には「俺は全部知ってるんだからな」などという恫喝めいた台詞さえ、社長の口からは何度も発せられました(ちなみに社長がいったい何を「知っている」と言っていたのか今をもって私にはわかりません。)

 おそらくこれを読んだ方の多くは、「そんな会社辞めちゃえばいいのに」と思われたでしょうし、今の私がこのころの私に相談を受けたなら迷わず「すぐに逃げなさい」とアドバイスします。
 でも、私はすぐには辞めませんでした。私だけでなく、同時期に同じような目に遭っていた同僚も。

 もちろん、業務の引き継ぎの問題や残される後輩への配慮、次の職場のメドが立っているか、なども理由です。ただ、それよりも私の心を占めていたことがありました。

・結局、自分の力が足りないからこんなことになっているのではないか
・がんばればこの状況を抜け出せるのではないか

 そして、何よりここがキモだと思うのですが、
・誰かに相談しても、きっと同じこと(力不足、がんばればいい)を言われる
→わかりきったことを言われるのはつらい、怖い
→これ以上つらい目に遭いたくない
と思いこんでいたのです。
 救いを求めればおそらく助けてくれるであろう人・機関の存在は知っていたにもかかわらず、追いつめられたがゆえの認知のゆがみによって、私のなかでそれらは「いっそう私を追いこむに違いないところ」になってしまっていました。
 「私がとても有能で非の打ち所のない人間であったならば助けになってくれるだろうけれど、そうではない以上、助けてくれるにしてもなんらかの形で指導したり努力を促されたりされる。日々怒られて参っているのに、さらに追いつめられる状況になるのはまっぴらごめん」。本気でそう思っていました。後から聞いたところによると、私と同じ状況に陥っていた同僚、そして私以前に怒鳴られる日々に嫌気がさして辞めていった人たちも同様のことを思っていたそうです。

 医師をしている友人から「風邪だと病院に来るのに、生命に関わるような病気が疑われる症状が表れたときには病院に行かなくなる人たちがいる」という話を聞いたことがあります。生活を変えなければならないような病気ほどなかなか診察を受けに来ない、とも。

 たぶん私たちはとても弱くて、肝心のときにかぎって怖さやに負けて、冷静に正しい判断を下せなくなってしまうのではないでしょうか。その結果、救いの道を敵対視したり見ないふりをしたりして拒絶してしまう。
 仕事、病気、子育て、介護、人間関係……。人生にはその他さまざまな「袋小路」に迷いこむきっかけが存在しています。今どんなに幸せでも、いつどんな形でそうした状況にはまり込んでしまうかわかりません。

 今回のこの事件が、どういった背景かは今はまだ不明です。けれども、「困ったら助けを求めに来る」ことを前提にしていては救えないものがあるように思えてならないのです。先に書いたように、子育てだけでなく、どんな場面であったとしても。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?