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あの子の帰り道

所用で街中まで出て、そこからバスで家まで戻る帰路だった。学生の頃にバスは使わなかったから、いつも少しだけ緊張する。Googleマップを見ながら、繰り返しバス停名と行き先を確認していた。バス到着まであと5分。すると小学高学年くらいの女の子が二人、バス停まで駆け込んできた。
「ここじゃない?もう行かなきゃ!」
「あ、うん!」
「バイバイ!」
「バイバイ!」
1人は用事か門限があるのか、あっという間に道路を渡って走り去っていった。残されていた子は、友だちがいなくなると同時に少し不安そうな顔をしながら時刻表を見ている。あと少しでバスが来る。
「あの、」
振り返ると女の子が真っ直ぐこちらを見ていた。
「あの、このバスって、この駅まで行きますか?」
「その駅までは…うん、行くみたいだね」
一応マップで調べると、私が待つバスに一緒に乗れば駅まで行ける。
「ありがとうございます!」
お辞儀をして、また時刻表と向き合う女の子。礼儀正しい子だな、と思った。

バスは予定時刻から2分遅れてきた。先に私が乗り、あとに女の子は乗った。彼女は整理券を取らず、ICカードもタッチせず、少し迷った様子のあとに前の座席へ向い座る。大丈夫だろうかと一瞬思ったが、また何か困ったら自分から動ける子だろうと私は後ろのドア付近の座席に座った。

バス停をいくつか超えて、静かな時間が流れる。乗客は私、女の子、そしておばあちゃんが1人だけ。私は車窓を眺めながら、バス停を降りたあとの予定をぼーっと考えていた。バス停を通り過ぎるたびにアナウンスが流れ、次の停留所を案内する。

自分の降りる駅を見逃さないように確認していると、前に座っていた女の子が、腰を低くしながら私の席まで駆け寄ってきた。通路にしゃがんだ彼女は、はっきりと、でも少し怯えたような口調で言った。
「あの、私、駅まで行きたいんですけど、」
「うん?」
「お、お財布みたら、お金が…。」
「足りないの?」
こうして話している間にも、バスは停留所を通過していく。バスの前方にある電子料金表は、その度に表示が少しつ変動していく。料金表とお財布を交互に見る彼女の背中は、どんどん小さくなっていくように見えた。
「駅まで行くんだよね?家は駅の近く?」
「駅からは、たぶん、定期が使える…はずで…。」
「バス停まで親御さんに迎え来てもらったりは?」
「親は2人とも仕事…。」
「そっか」
運転手さんに声をかけて対応してもらうこともできる。ただすでに私は自分の財布を手に取っていた。彼女は100円玉を何度も数えても2枚程度しか見つけられずに言葉を失くしていた。私も大した小銭はない。そして彼女が家に帰るまでの間、付き添うこともできない。バスを降りてもきっとギリギリの気持ちで電車に乗り、家に帰るまで不安になるだろう。

普段来ない場所に来て、持ち合わせが少ない。きっと想定していなかった事態だし、なんだったら親に内緒で友達に言われるまま出かけたのかもしれない。帰れるだろうと思ったらお金が足りない。そんなところだろう。私はお財布から千円札を出した。

「これ使って。」
お札を見た彼女は、首を横に振りながら言った。
「いや、そんな大きいのは、」
「私も小銭いまないし、バス降りたあとも移動するんでしょ?何かあった時に使って。」
「でも」
彼女の手に折り畳んだお札を持たせて、一瞬コロナの可能性も考えたが、私はそのまま彼女の手を握った。
「いいの。その代わり、あなたがいつか大人になった時、同じように困っている人がいたら、助けてあげて。ね?」
「はい…ありがとうございます。」
千円札をぎゅっと握って、彼女は席に戻った。

そこで気づいた。千円札をバスで両替して、必要なだけ渡すこともできた。私もバスに慣れていない証拠だ。もしあの子が持っている数枚の百円玉でバスを降りられたとしたら?電車も定期が無事に使えて千円があの子のお小遣いになったら?そんなことを考えながら、少し俯くようにして座席に座る彼女の背中を見つめていた。

自分の降りるバス停が来た。乗客はいつの間にか私と彼女だけだった。前方に向かいがてら、最後に声をかけた。
「気をつけて帰ってね。」
「はい。」
恐縮したように何度も会釈をする彼女を見ながら、ICカードをタッチして精算する。
「運転手さん、彼女駅まで行くそうなんです。1人で心細いみたいなので、何かあった時にはお願いします。」
「はい、駅までね。わかりました。」
白髪混じりの運転手は、彼女の姿を見て頷いた。これでバス乗っている間は安全に過ごせるはずだ。バスを降り、発車を待って彼女に手を振ると、少し緊張がほどけた顔で、手を振り返してくれた。

もしあの子が例え私を騙してお金を得たとしても、構わない。私が勝手に心配し渡したのだ。その勝手を、どう考えるかだ。あの千円は、もう譲ったものだから、何に使おうと構わない。私はそのお金と同時に、言葉を託した。心に響くかどうかは、あの子次第だ。

私がそうしたかっただけ。
私が、誰かに言いたかっただけ。
「いつか大人になったら」
そう願いたかっただけ。

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