言葉の選び方、その先にあるもの。

私は文字を並べることが好きだ。同時にそれを読むのも好き。
まあ、文章を書いたり読むのが好き。わざわざ遠回しに言いたくなるくらい好き。
手書きで日記を書くよりも、この決められたフォントでカタカタと文字を並べていく作業がいい。
手書きはどうしても自分の字の欠点ばかりが目についてしまう。
なんだったら、一年くらい書き足していく日記だからとお気に入りのデザインの日記帳やノートを折角買ったのに、そこに自分の残念な文字が並ぶことが耐えられない。
何よりも自分の思考と文字を書くスピードが追いつかなくなってしまった。
手書きにするときは、お手紙やメッセージカードを書くくらい。そして書かなくなったことで更に下手になる自分の字に愕然としては、泣く泣く何枚もレターセットを消費していくのだった。

中学一年のクリスマス、プレゼントにノートパソコンが与えられた。
どんな狙いがあって与えられたのか、私は未だに知らない。(私はPS2の方が圧倒的に欲しかったので、何も嬉しくなかった記憶がある。)
姉と共有の分厚く重いVAIOは、リビングの端に設置された。最初は音楽データを管理することくらいしか出来ず、手持ち無沙汰だった。しかし目的が出来たら話は別。中学二年生になって出会った友人と、携帯メールだとお金がかかるからとパソコンでチャットを始めた。そして読み返すのも恥ずかしいような自作の短編小説を書き始め、自分の想像や思考を言葉にし、文字起こしするようになった。これがすべての始まりだ。

今思うと、よきスタートだったと思う。
その後小説の創作はもちろん、ブログを立ち上げ、行き場のない感情や思考を書き綴る日々が始まったのだ。
そして私らしい言葉の選び方を習得できた。

言葉を選ぶ作業というのは、自分の思いをどれだけ理想の姿で届けられるかが決まる。姿というのはあくまでも例えで、私が思うのは「温度感」が伝わるのが理想だ。(以前は「柔らかさ」とも言っていたが、今は「温度感」の方がより近い気がする。)

一年しか勉強しなかった大学は、一次選考に自作品の提出が必要だった。(実際入学したら新入生は十人程度で、実力があったかは不明。)
娘にたくさん本を与えてきた母は、私が提出した短編を読んで言った。
「あなたが書く文章には、どこか孤独を感じる。」
間違いない。実際に私は孤独だったし、創作をその捌け口にしていた。短編は別れがテーマで、そもそも明るい話ではなかった。しかし母はその内容以外に感じるものがあると言ったのだ。
自分ではない、いるはずもない誰かの物語。その拙い表現の中に、孤独を冷たい視線で見つめる私がいたのかもしれない。それを母は言葉から感じ取ったのだろう。私はもう、あの頃のような言葉の選び方は出来ない。どこを読んでも温度がない、じっと息を潜めて並べられた、そんな言葉ばかりだった。

過去のブログを読み返すと、自分が書いたとは思えないような言葉があったりする。その時の感情や、いる状況から生み吐き出された言葉たちは、揺らぎはしないという願いや思いを秘めていて、じんわりと熱をもつ。
そんな過去の私を、今の私はよく褒めてあげるのだ。その言葉を読み返しては、自分で噛み締めて、ここまで生きてきたのだから。
私にとって言葉を並べることは、生きる術の一つだった。

文字はいつだって表面的で、とても便利だけど、手書きに比べて「らしさ」が出にくい。もちろん書いている人はそれぞれに違うし、考え方も違う。視点を変えれば、例えどんなに整った文字を書けなくても、決められたフォントであれば平等に読み込める。だとしたら、言葉の選び方だ。

私の選び方は、綺麗な言葉ばかりを選ぶのとは違う。正しい言葉を選ぶのも違う。自分が伝えたい心の中の感情を、一番近い姿で表現できる言葉。

いつか、自分の感情から生まれた言葉たちが、誰かの心を撫でるかもしれない。過去の私が、今の私が紡いだありふれた言葉が、誰かの何かを動かすかもしれない。
文字に残すことで、私はいつでも出会うことができる。あの頃に再会できる。誰かが、いつかの私に出会うことができるのだ。

だからどこで誰の目に触れるかわからないネットの中に、言葉を並べておくことを、私は続けたい。自分の中だけで終わりたくない。
いつだって語りかけたいと思うのだ。
ずっと一緒に生きてきた自分と、どこかで生きている誰かに。

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