この世界は、ざらついたグレーに染まる。

忘れられない言葉がある。中学3年の夏休みが終わる頃。私は母と一緒に学校へ行き、来客用の会議室に通された。教頭と学年主任と担任が長机に並んで腰掛け、私と母は向かいに座る。前期に登校拒否をした私の進捗と、後期をどうするのか、という話し合いの場だった。

学校側の言いたいことは簡単に予想できた。このまま後期も欠席が続くようなら卒業が難しくなる。もしくは高校へ進めなくなる。(中高一貫校のため)その上で一体どうするのか、という話。先生方の表情はとても固かった。

担任は私に直接連絡を寄越さない代わりに、友人を使って私の近況を探り出し、更には勝手な憶測をして手を出そうとしたことで私の信頼を得られなかった。ベテランの先生だったために年下の学年主任は口も出さなかった。

私が学校へ行かなくなったきっかけは正直はっきりしないものだった。学校が嫌だというわけでも、嫌いな友だちがいるわけでもない。(面倒ないざこざは確かにあったけどそれはすでに終わったことだった。)
ただ強いて言うなら、当時私の頭を悩ませていたのは『自分があまりに無力な人間だ』ということだ。

校長面接でこの話をしたものの、はっきりとは私の考えを汲み取ってはくれなかった。実際、目の前に座った三人の教育者は「え?」とでも言いたげな表情で私の口から出る説明を聞いていた。

人の相談をよく受ける。昔からそうだった。ただ最近受ける相談は自分が立ち入れない問題で解決できないことが多く、自分自身の不甲斐なさと無力さに打ちのめされた。励ましの言葉をかけるも相手には何も通じずに捨てられる。それでも助けを求めてくる。助けたいと思っていても、自分に出来ることと出来ないことがある。それを受け入れ難かった。さらにどうしてこんな不幸なことが有り得るのか理解できない。恵まれてる人が多いはずなのに、どうしてこんなに辛い思いをする人がいるのか。そんなことをずっと考えていた。それでも自分が人に優しくする理由を見失っていた。ただ、ゆっくり考えていくうちに、今答えが出なくてもいつかきっと答えは出るだろう。必ずいつかは報われる。そう信じられるはずだと気付いた。

「だから9月から学校へ行きます。」

今だから言えることも足したが、これに近いことを中学3年生なりの言葉で説明した。いじめでもない、誰かのせいでもない。担任は私に相談をしてきた友人を特定して私から離れさせようとしたが、それは私が断固反対した。確かに相談を受けている友人を目の前にしたり、そのことを考えると胃が痛くなるなどの症状はあったが、変わるべきは私だけで、周りを変えようとすることを拒否した。これは私の問題だから、何も手を加えないで欲しいと断言した。

苦い顔をして了承する担任と、何も言うことがない学年主任。学校への復帰の意思を両者で確認し、解散するだろうその時。
教頭だけが、私を見て口を開いた。

「いいですか。この世界はね、グレーなんですよ。」

クリスチャンの教頭から、そんな言葉が出てくるなんて信じられなかった。とても衝撃で、湧いてきた感情は怒りだった。教頭は続けた。

「あなたはあまりに白黒つけたがる。ですが、グレーなんですよ。社会はそうやって成り立ってるんです。それが世界です。白黒つけられないことが山ほどある。今みたいなやり方では生き残れません。それを知りなさい。」

こんな大人がいるから、苦しむ人がいるんだ。グレーってなんだ。グレーなんて中途半端なものを選ぶなんて、白にも行けず黒にも染まってしまう自分を嫌悪する人がいるというのに。それでも白を選び白くあろうとする私に言うのか。

私は歯を食いしばってその言葉を聞き、耐えた。教頭は一息ついて、立ち上がった。それを合図に全員が立ち、話し合いは終わった。帰り道、私は母に耐えた怒りをぶちまけ、確固たる意思を持って学校へ復帰した。

高校を卒業し、実家から離れて体一つで社会へ出た。初めて自分の意思で人を選んで関わった。そして気付いたのだ。この溢れかえる人たちが、どんな風に生きて、どんな色なのか。白を選ぶことを、鼻で笑う人がいること。黒を選んで楽しむ人。白でも黒でもなく、それが程よくベストだと生きる人が一番多いということ。

『グレーなんですよ。』

ああ、本当だった。
教頭先生、ごめんなさい。私が未熟でした。この世は、グレーばかりです。白と黒どちらかなんて選ぶ人はいない。グレーでいることが賢いと言われるんでしょう。先生、私はあまりに純粋だったんですね。大人になるってこういうことなんでしょうか。大人になったら、グレーがいいんでしょうか。黒はそんなに魅力的でしょうか。わからない。わからないけど、私はもう白でいることにも疲れました。だって親でさえ、グレーだった。白でありたいと願うグレーでした。人間は完璧ではないと言うけど、自分の親に限ってそんなことはないって信じていたんです。それなら。それなら私は、もう白でいなくてもいいですよね。染まっていいでしょう。だってそれが大人だから。

グレーの世界は、とてもざらついていた。砂利道のような、手の平から指先まで触れる感触は、心地よくない。少し灰色になった自分の手を、ひどく冷たい自分の目が見つめて、そのままの手であれこれ触りに行った。きれいな水も、白い壁も、誰かの服も、誰かの心も。そのままの手で、触れた。

グレーでいたいなら、私に白でいることを求めないでよ。
白く滑らかな私の心がどんなに心地よくても、その手で触れるなら私は受け入れるだけ。勝手に白に変わるとでも思った?白でいるには、それなりのいろいろがあること知らなかった?あなたがグレーで触れるなら、私はグレーに染まりましょうね。白でいてだなんて、好き勝手なこと言わないで。

そう笑いながら。

そうやってグレーに染まった私が、触れた誰かの白さが眩しすぎて涙したあの夕方や、真夜中から朝に変わる瞬間に見た心の悲鳴に目を向けた時が訪れるのは、もう少し先の話。

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