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櫻坂46「Start over!」に込められた"力強さ"

"今さら"はダメかい?
遅すぎるのかい?
やり直せるなら
何だってできるだろう?

櫻坂46「Start  over!」より

そう、やり直せるなら何だってできる。

やり直せば 起きてしまった失敗を防ぐことができる。
やり直せば 掴んだ成功の栄華を再体験できる。

やり直せば
分岐点から全く異なる道を歩むことだって、
経験から生み出された道を歩むことだって、
何だってできる。

…はたして本当にそうだろうか?


これは問いなのだ。
「Start over!」という楽曲における
『やり直しとは何なのか』という大きな問いである。

では、具体的に何を問われているか?

それは「そこに意志はあるのか」という
強い問いだと考える。


ここでこの歌詞の秀逸な点が光る。

「何だってできるだろう?」と言っている。
「何だってできるだろう。」とは言っていない。
あくまでも、断定ではなく、疑問なのだ。
投げかけられている。問いかけられている。

実際は強い意志のもとでなければ
いくらやり直したところで
"何だって"はできないだろう。

やり直しのいい例として、ゲームがある。
ゲームをプレイしていてリセットするのは、
大方プレイヤーにとっての"不都合"が起きたとき。

その不都合を「こうしたい」という明確な意志、
つまり『やり直しの先にある目的』があってこそ、
プレイヤーはゲームをリセットするのではないか。

反対に、
プレイしていたゲームが
何らかの理由で突然リセットされたとして、
多くはその瞬間までの時間 を"取り戻す"ように
自分が辿ったルートに沿って
再び歩みを進めていくのではないか。

ゲームが突然落ちたやり直しは、
取り戻"させられて"いる。
受動的、受け身のやり直しだ。


この楽曲において、やり直しの意義は
目的に向けて意志がはたらくことでようやく成り立つ。
目的も意志も無いやり直しでは、
その意義が成り立たない。

やり直しは、"取り戻す"こととは違う。

はじめにあげた「成功の再体験」だって、
その成功を得たいという願いがもたらすものであり、
成功を"取り戻す"わけではない。

しかし、
「無くなってしまったものをもう一度取り戻したい」
という思いがあれば
それは"やり直し"といえるだろう。

取り戻すをひとつとっても、
そこに意志があるか否かで
やり直しの意味合いが大きく変わることが
どうかこの稚拙な表現でも伝わってほしい。

この楽曲における「やり直し」とは、
意志ある行動か否かを分ける
力強い意味合いを有していると。

大事なのは どこからやり直すか?
そりゃ諦めかけた数秒前

櫻坂46「Start over!」より

グループの命運を分けたとも言えるほど
強大な影響を与えた「Start over!」という楽曲の、
"力強さ"はこの問いに込められているのだろう。


と、自分の好きな楽曲を借りて
自分の思考を書き残していく。

このnoteは文章が支離滅裂でまとまりがない。
目も当てられない、読んでいられない。
だからいつかやり直す。
始まりはやり直すための第1歩に過ぎないのだ。

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