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それは自ら選んだ結末か?:雑記

願わくば、「立場」がそうさせると言わせて欲しい。


楽しかったあの頃を支えてくれた、
あの頃が楽しかったと思わせてくれた人たちと
久しぶりに会って、一緒に過ごす時間があった。

あの頃を思い出して、いや、思い出さずして
ただ"あの頃のわたし"で過ごした。
よく笑った。

笑わせてくれたのもあったし、
ただ笑えたのもあったし、
笑えることが増えたこともあった。

笑えることが増えたのは、
笑うことに対するハードルが低くなった。
「おもしろい」へのアンテナが張り巡らされた。


最近のわたしはどうだろう。
なんだかいつも眉をひそめている。
注意して、叱って、怒って、不安や不満を晒して。
負のアンテナが、四方八方へピンと張られている。
まさに「琴線に触れる」を体現するかのように。

本当はもっと笑顔でいたい。
穏やかでいたい。
寛容でいたい。
楽しいことを楽しいと思って、
不安も周りの力を借りつつ自分で安心に調律できて、
許せないは許せるでありたい。


どこかで見かけた言葉。

石橋を叩いて壊してからようやく進める。
しかし壊してしまって進む道は無くなっている。

本当にそんな感じ。

どうして自分で壊してしまうのだろうか。
壊したくないのに、進みたいのに、
その道を壊しているのは自分だった。

そう気づいたのは同僚と話していた時のこと。

部署が異なる同僚は、先輩の話をしてくれた。

「子どもに怒って、泣いたら泣くなって怒るんだよ?
 自分が泣かせているのにも関わらずさ。」

ぐさり。ぐさり。自分に刺さる。

経験があるし、その後に続く話も
まるで自分のことを言われているかのような、
そんな気持ちでわたしは
「それはよくないよなぁ。」

へらりと笑って相槌を打っていた。


ある時は「立場」がわたしにそうさせていると
考えることもあった。

自分個人としては楽しめること、気にならないことも
大人として、職員として、その場の責任者として…
その時その時の自分が一体"どこ"にいる人なのか、
同じ場面であってもその考え方、意識の持ちようで
わたしは怒ったり楽しんだりしているのかな。


「最近ちょっと疲れちゃったんだ、」
と溢したとき、その人は言ってくれた。

『ー立場もなんも関係ない人と絡んで話するだけでも
 いいと思うんすよわかんないけど甘ちゃんなんで』

たしかに。そうかも。
"あの頃のわたし"は支えてくれた人たちが
同じ目線で立ってくれた。

たった独りの孤独を紛らわすため
必死に取り繕ってたわたしを、
純粋に受け入れてくれた。
あの頃わたしは孤独でありながら輪の中にいられた。
それだけで充分だった。


じゃあ、今はこの「立場」である以上、
わたしはしあわせになれないのかな。
すると聞こえる言葉。

「自分がそうしているんじゃん。」

自ら心を閉ざし、孤独を選んで。
自ら苦労を買って出て、不幸を選んで。
自ら壊して、喪失を選んで。

いつになったら、どうしたら
この螺旋を抜け出せるだろうか。

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