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【読んだ】百瀬文『口を寄せる』
百瀬文の展覧会図録を書店で見つけて購入した。いくつかの作品は観たことがあったけども、こんなに多作な作家だとは知らなかった。ドキュメント写真と解説文から未見の作品の鑑賞体験を想像しながら、各論考を読んだ。
黒嵜想の「オーラルセックス」は、百瀬の作品を観る時に否が応でも自覚させられる鑑賞者自身のセクシュアルな視線と、脳内を巡る連想を執拗に言語化するのかと思いきや、最後にそれを唐突に切断=否定する。それは拒絶のようにも思えるし、「ツッコミ」のようにも思える。
伊藤亜紗の「身体の捕獲」は、百瀬の映像作品に頻出する「読ませる」という状況に着目して自由意志を論じるのだけど、例えば「中動態」や「ケア」や「利他」のような概念を用いるのではなく、「身体の捕獲」「他者の暴力的な侵入」という「不気味な状況」として描き出しているのは膝を打つ。
百瀬は、たんに構造的な主題から倫理的な主題へと作風を切り替えたのではない。編集された映像から整形された性的身体へと、より深化したターゲットを相手に、視聴覚の詐術がつくるイメージを暴こうとしているのだ。
百瀬の作品は、世の暴力や不公正を批判しているようでいて、「読ませる」という行為を通じて、それ自体が暴力や不公正の実演となってしまう危険を多分にはらんでいる。しかしもし、暴力や不公正を批判することが、他者の暴力的な侵入というものの価値を全面的に否定してしまうことになるとしたら、それは産湯とともに赤子を流すようなものだろう。自らの自由を一時的に百瀬と作品のために差し出しながら、画面内の捕獲された身体は、そう語っているように見える。