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つがいの鴨、初夏の池でなかよし

 正直、つがいなのか、鴨なのか、ほんとうは、よく知らない。でもどうでもいいこと。鴨にとっては、自分が人間から鴨と呼ばれていようが、別のなんとか呼ばれようと、知ったことではない。私から見ると、つがい(ペア)と見ているけれども、この二羽にとっては、それ自体がすべてだと思う。二羽の世界、いずれ子を生して、次世代へ引き継ぐ。それでいい。その始まりから終わりまで、そうあることが愉しい。

 私もすでに、68歳、いま死ねば享年71歳らしい。十分生きた。死にたくはない。あとの世代が続々と。人類がいつまで続こうと、その一端を担えたことは、人類の端くれとして、任を全うした。

 この宇宙、生命が存在する遥か以前から、いま、この瞬間、そしてこれから引き続く、この宇宙の滅亡まで。いまの科学の知見では、最初のビックバンから宇宙の最期まで、ストーリーは決まっているようだ。詳しいところは、知らない。興味もない。それはそれで。そうあればいい。私は、それを見ることも、感じることはできない。

 人間は、一時的な存在、それを理解するのは、究極的に、宗教なのだろうか、宗教は、所詮、人間が苦し紛れ、あるいは出来合いのものではなかろうか。一時の気休め、思い込み、それはそれでいい。いつか死ぬ、消えてなくなる、この存在、納得できれば、それはそれでいいこと。自己責任、アメリカのニューヨーク、あの貿易センタービルに旅客機でぶつかって行ったアラブ人、最期の習慣、神が見えたのだろうか。

 神や仏を信じたい。最後は、自分。まだ信じられない。

   

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