蝉の鳴く声、死骸に夏の盛りを想う
玄関前のポーチに、蝉の亡骸、落ちていた。力尽きて、暑い熱い太陽光に焼かれるように横たわっていた。取り除こうとすると、まだ生きていると動き出す。
蝉は、幼虫7年成虫7日、短い命。それは人間から見て思うだけ。一瞬も百年も、同じこと。いづくより来たりて、いづへ去るのか、そもそも命とは、なんなのか、科学的には、生命の誕生は、まったく奇跡らしい。
この天に拡がる大宇宙、地球のように生命が存在するかいなか、まだ解明されていない。我らの太陽系や銀河系には、まだ確たる生命体の存在は、確認されていない。いても何万光年もかけて、地球へ来る生物・生命もいないだろう。せっかく、生まれたのに、ずっと旅するなんて、なんともったいない。宇宙は、フィクションの世界、当分、おそらくずっとだろう。
ロシアや中国のような国がある限り、近々、人類は他の動植物を巻き添えに、この生命体の宿る地球の環境を破壊する。
生き残った生命体に期待するよりほかはない。
人間からみれば短い蝉の命、我がこととして考えたい。
成人するまでは、親や周囲の都合や考えで振り回され、成人後は、仕事や結婚などの忙しい、目まぐるしい時期を超え、壮年期は、家庭を維持したり、様々な遊びや生活で、時は過ぎていく。
気が付けば、定年などでリタイア、その後は、幸いにもまったりできている。これも運がよかったとしか思われない。
残った人生、ただ残りを愉しむだけでなく、一日一日を充実させて生きていきたいものである。
どっちにせよ、いずれは死ぬ身、わずか二千年足らずの日本の歴史、その断片が文書で残っている。
読書もまた考える材料である。
とりあえず読書か。
数日前、喧しいほどに聞こえた蝉の声、いまは死屍累々の死骸
同じ運命だ、我々と。
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