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なんだか読み直したくなる日本語

こんにちは、やのまさです。今日はSNSで見つけた曖昧性の話をしたいと思います。一部は、わたしが担当している「心理言語学」(学部2年生向け)という講義で使用しているものです。

ここで言う曖昧性とは複数の異なる解釈(正確には統語構造ですが)を持つということで、「英語が話せる先生の息子」のように最後まで読んでも曖昧性が残る場合もありますが、心理言語学的により重要なのは、一時的な曖昧性です。一時的に曖昧な文は、最後まで読めば、意味的なもっともらしさなど何らかの情報に基づいて解釈をひとつに決めることができます。では、ひとつずつ見ていきましょう。

ひとつ目

赤ちゃんの全身から_構造的曖昧性_attachment ambiguity

(元のツイートはすでになくなっているようです)

一瞬、「赤ちゃんの全身から作りました」という修飾関係になっているかのように読んでしまったひともいるかと思います。実際は、「赤ちゃんの全身にも使えるし、(それ以外の)すべてのひとにも使える石鹸」を作りました。という解釈です。

このように「赤ちゃんの全身から」の部分は修飾する場所が曖昧であるにも関わらず、日本語話者はなるべく高い位置(ここでは動詞)に結びつけようとする傾向があるので(cf. Kamide & Mitchell, 1997)、「赤ちゃんで作った」という解釈にいきつき、不思議に思ってしまいます。先ほどの「英語が話せる先生の息子」で「英語が話せるのは息子」という解釈のほうが取りやすいのも同じ現象です。

ふたつ目

こちらは、2020年のサラリーマン川柳です。第2位の受賞作なんですが、秀逸です。

「パプリカを食べない我が子が踊ってる」 第33回サラリーマン川柳       (リンク先のほうが状況がわかりやすいです)

最初、「パプリカを」は「食べない」の対象(目的語)だと思っていたのに、最後まで読むと、「パプリカを」は、実は「踊る」の対象(目的語)であることがわかり、解釈のやり直しをすることになります。

なんとなく「パプリカを食べない子どもがパプリカを踊っている」という解釈になるのも面白いですね(文法的にはその解釈は保証されないのですが、lingering effectと呼ばれる効果が効いているのかもしれません)

なぜ曖昧性は重要なのか

こういった文をみると、ついつい「もっと分かりやすい日本語を書け!」と言いたくなってしまうかもしれませんが、わたしが専門とする心理言語学は科学の一分野なので「どうしてこのような現象が起こるんだろう?」ということをよく考えます。

一時的な曖昧性を含む文を読んだとき、一瞬、あれ?どういうこと?となることを、ガーデンパス効果と言います。ガーデンパスは、歩いていると分かれ道を見つけたので、一方を選んで歩いていたんだけどそこが行き止まりだったとわかり、また戻ってもう一方のほうに行くということです。

このようなガーデンパス効果が起こるのは、解釈のやり直しをしているからです。解釈をやり直さなければならなくなるということは、文を読み終えるまでの間に修飾関係について何らかの分析をしていたことを意味します。したがって、日本語話者は、動詞が出てくるまでの間に修飾関係を推測していることを示しています。

日本語のように文の中で最も重要な動詞が最後にくる言語では、これは自明なことではありません(実際、80-90年代は主要なテーマのひとつでした)。動詞が聞こえてくるまでとりあえず修飾関係に関する判断を保留しているかもしれないからです。

では、どのようにして修飾関係を推測しているのでしょうか。数多くの研究がありますが、世界に関して私達が持っている知識(例えば「英語が話せる息子の犬」だと犬を修飾する可能性はない)や文法的な情報(例えば格助詞)など様々な情報が利用されていることがわかってきています。

そもそも曖昧性があるなんてことは、普段は気づきません。脳が勝手に対応してくれてるからです。それを示しているのがみっつ目です。

みっつ目

これは YOASOBIの幾田りらさんのツイートです。ちなみに7月の話です。

このツイートのリプライや引用リツイートを見るとわかるのですが、多くのひとが、「雪が降っていると誰かから伝え聞いた」という解釈を取っています。しかし、ご本人が追記しているように、意図された解釈は、「雪が降っているように見えた」というものです。

「みたい」には「あの雲はクジラさんみたいだね」のような使い方があるにも関わらず、多くのひとはその解釈に行き着かず、そもそも曖昧性があることに気づいていないことがわかります。この点は田窪先生がばしっと(?)ご指摘くださっています。

よっつ目

最後にご紹介するのはこれです。

この文を最初に読んだときは、曖昧性があるということすら気づきませんでした。素晴らしいツイートです。

「糖質を考えたシュークリーム」は、「(誰かが)シュークリームの糖質を考えた」という解釈ですが、文法的には「シュークリームが(なにかの)糖質を考えた」(「社員が糖質を考えた」ー「糖質を考えた社員」と同じ関係)という可能性もあります。したがって、潜在的に曖昧性を含む文(というか関係節)です。

おわりに

曖昧性を含む文の理解について考えてみるとわかるように、ひとは言葉を理解するとき、いつ、どのようなことをやっているのか意識していません(もしくは意識できません)。なので「○○という文を理解するときどのように修飾関係を考えましたか?」と尋ねても答えられません。

これが、心理言語学で実験的な手法を使う理由です(これはアドベントカレンダー「言語学な人々」9日目の心理言語学においてどのような手法が望ましいか、という話の前振りです)

というわけで、まだまだあるのですが、曖昧文と、それと心理言語学との関わりについての話でしたー。



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