私たちは今、夢を見ることができるのか? 〜 映画『ラ・ラ・ランド』〜



 2014年の映画『セッション』で注目を集めた、デミアン・チャゼル監督の最新作『ラ・ラ・ランド』。ミア(エマ・ストーン)とセバスチャン(ライアン・ゴズリング)、夢を追いつづける2人の甘美な愛と苦楽を鮮やかに描いている。特に惹かれたのは、ラストで見せるミアとセバスチャンの微笑みだ。挫折や苦難に見舞われながらも、愛する人が夢を叶えたのだという喜びであふれていた。セバスチャンをずっと好きだと言ったミアの言葉は嘘じゃないのだろう。そう思わせる名シーンだ。すべてが理想通りにいかないとしても、つまずきや寄り道だって大切な思い出になりえる。こうしたメッセージが込められた本作は、多くの人をささやかに励ましてくれる。


 しかし一方で、本作に夢を見ることはできるのだろうか?という想いもある。クラシカルな雰囲気を醸しながらも、唐突にスマートフォンの着信音が鳴るなど、本作には明確な時代設定が見られない。それでも、本作の夢が過去に依拠しているのは確かだろう。オープニングの大々的なダンスで『ロシュフォールの恋人たち』(1967)にオマージュを捧げると、その後も『ウエスト・サイド物語』(1961)、『グリース』(1978)、『スイート・チャリティー』(1969)、『雨に唄えば』(1952)といった具合に、映画史に残る名作からの引用が飛びだす。引用の仕方が雑なのは少々気になるものの、チャゼルの映画愛は十分に伝わってくる。


 だが筆者は、そうした愛が過去に向けられているところに、どうしても引っ掛かってしまう。それはいわば、“未来”だけでなく“現在”にも夢を見いだすことは困難だと言ってるに等しいからだ。確かに今は、容易く夢を見られる時代ではない。経済格差や差別が世界的な問題となり、その解決方法もハッキリとは見えてこない。私たちは、そうした不安と常に隣り合わせな時代に生きている。しかもその不安は、ドナルド・トランプやマリーヌ・ル・ペンなど、排外志向が極めて強い者たちの台頭にも繋がっている。このような現状に、夢を見いだすのは難しいと嘆くのも無理はない。


 そのうえで言うと、本作の夢はズバリ、過去の夢である。ハリウッドが栄華を誇り、多くの人たちが物質的な豊かさに恵まれた古き良きアメリカの夢を見せてくれる。しかしそれは、筆者からすると懐古主義でしかないように思う。あの頃はこんなに輝いていたから、それと同じ夢を見ましょうと促されても正直ツラい。現実は映画と違って、時間を巻き戻すことはできない。エマとセバスチャンの物語みたいに、肩がぶつかっただけの時間をロマンティックなキスに変えるなど、できはしないのだ。


 こうした現実とのズレを象徴するのは、エマとセバスチャンが食事中にケンカをするシーンだ。少なくない不満を抱きながらも、キーボード奏者として安定した収入をもらいはじめたセバスチャンにエマが怒る。エマからすると、そのときのセバスチャンは夢を捨てた者に見えたのだろう。
 このシーンからわかるのは、2人にとって安定した生活は夢の対象ではないということだ。やりたいことを貫き、そのためなら安定を捨てることも厭わない。しかし、経済格差に苦しめられている者からすれば、エマとセバスチャンが軽視する安定した生活こそ、夢見る豊かさのひとつではないか。本作はそうした視点を無視し、夢見ることを無条件に称揚してるように感じる。
 確かに本作は夢を見せてくれる。だがそれは、古き良きアメリカに憧れ、安定した生活を軽視できる立場にある者だけが見れる夢だ。そして、その夢に入れない者たちを無意識に排除しているという意味では、とても残酷な映画でもある。

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