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ラリュエルの構造(2):否定神学的構造の手前における世俗性

さて、ラリュエルの話の続きなのだが。しかし「ラリュエリアン」と言うと宗教臭い感じがするのは気のせいだろうか……

前回、柄谷-東の否定神学批判との類似を指摘したが、だからフランスと日本で別経路で同じような「発見」がなされたことになる。自然科学ではそういうことがよくあるが、人文学でもあることなのだ。

否定神学的構造の外部をどう考えるかは、2010年前後にメイヤスーなど思弁的実在論において共通の問題となった。しかし東は90年代末にその問題に輪郭を与えていたし、遡ればラリュエルがある意味最も戦略的に「そこを狙っていた」わけである。21世紀には、構造的必然として、皆がそれについて語ることになった。

浅田彰が『構造と力』で示した有名なクラインの壷モデルでは、(i)内部と外部の二項対立があり、そして(ii)内部なのか外部なのか決定不可能なもの=Xがあってそれがクライン管を循環している。東は、この「内部/外部」を「メタレベル/オブジェクトレベル」と言い換えている。このモデルは近現代哲学の色々な箇所に見出せるが、問題となっている二項対立は、伝統的には「内在/超越」だと言える。

ところで、二項対立とは何か。

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