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人生の流れに身を任せる、映画『プール』の話

チェンマイにホシハナヴィレッジという、日本人のスタッフによって運営されているコテージ型のリゾートがある。

ホシハナには何度か訪れたことがあり、最後に宿泊したのは2019年の大晦日。北タイの田舎でホームステイさせてもらっているような気分になれる、2階建ての小さな家に泊まった。

滞在中はプールでのんびりと本を読んだり、玄関先に現れた猫と戯れたり、過剰過ぎない味付けの健康的なタイ料理を食べたりして過ごしたことを今でも鮮明に覚えている。

こうやって思い出しながら書いていると、随分と昔の出来事のような気がするのと同時に、チェンマイに戻ってホシハナにまた宿泊できる日が来ることが待ち遠しい。

今回はそのホシハナを舞台にした映画『プール』について。

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プールは、さよの成長の物語である。

気張っていた女の子が、チェンマイの心地よい空気に包まれ、またそこで伸び伸びと暮らしている人や動物に触れ、徐々に心の緊張が解けていく。

一番、印象的なのは、さよと母親が一緒に鍋を囲むシーンだ。

会話の流れで、さよが母親に「一緒に暮らしたかった」というずっと抱えていた本音をぶつける。それに対して母親は言葉を探しながら、しかしハッキリと言う。

「そうか...そうだったのか」

ふと自分が母親だったら、どんな言葉を投げかけるのか考えた。

思春期の娘を日本に置き、チェンマイにひとりでやってきて、タイ人の孤児と暮らしている。自分の娘が訪れ、「一緒に暮らしたかった」と言われたら、謝罪の言葉が出てきてしまうかもしれない。

しかし、それは表面上ただ同調するだけで、自分の気持ちに素直に生きてきたという想いがあれば、まさにさよの母親のように受け止めることしかできないだろう。

さよにとって母親は、人の気持ちを考えずに自分勝手に行動しているように映るが、母親自身は自分という枠を超えて流れに身を任せて生きているだけで、「母親はこうあるべきだ」という考えに固執しているさよこそが、実は自己中心的な考えに囚われている。

流れに身を任せて生きることは簡単ではない。自分の場合、こうありたい自分に囚われ過ぎている面があり、そこに向かって努力することは悪いことではないが、やはり無駄な力みや緊張が身体の中にある。もう少し柔軟に受け身の姿勢を持つことが大切なのかもしれない。

チェンマイに住んでいると、チェンマイ特有の柔らかい空気がそういう自分にブレーキをかけてくれるのか、より自然体でいられる感覚がある。

この映画でさよの母親がいうような「ここに来てから洗濯好きになっちゃった」のような日々を積み重ねることが、流れに任せて生きることなのかなと思う。



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