パブリックの研究:国体とオリンピック
一流の選手はオリンピック行くがそうでない選手は国体に行くと言われる。僕には違って見える。
「企業がくれる金」が好きな方々はオリンピック行って、スポーツが好きなヒトは国体に行くのだ。
スポーツの技術に順位をつけてもしょうがない。偏差値と一緒で常に誰かが1番になるが、それは一瞬のことだ。やがてアスリートの残骸となる。その後どう生きるかが大事なことだ。ピンはね側に回るのが成功者と言われるが、「ちゃんこ鍋屋さん」を開いて美味しさを分け与えたほうがいい。少なくとも僕は尊敬する。その味は苦しかったアスリートの時代に得たものだ。
僕は裏方として12年間国体と関わってきた。
そういう意味で、僕は国体のおこぼれで生きている業者なのだ。だから生活のためにスポーツを道具とする人の気もちもよく分かる。
今年は三重国体である。ゴルフ競技の集計システムの受注を12年続けている。毎年この時期に選手データの取り込みというのを行うのだがCSVの解釈が難しくデータのフォーマットを変更されると大騒ぎになる。今年も変更があって、大騒ぎである。出来るまでねれない、ときおり落ちるように寝るけどね。マユに生まれればよかった。
オリンピックで金メダルをとったりスポンサーの集まる大会で優勝したりしなければ、お金持ちにはなれない。しかし、そのお金持ちというのは「お猿さんがちゃんちゃんこ来て踊る」ようなものだ。
その金は、スポンサー企業が、『働いてい人の時給を絞り、リストラして、多くの庶民を踏みにじった金』だ、せいぜい贅沢をするとよろし。
コイツラが、お猿さんが踊って受け取る金をピンはねしている。今年のオリンピックはいいことを教えてくれた。しかし、みんな居なくなったね。逃げ足は早い。
国体の選手って企業の広告塔にならない。なれないのかもしれないが、それはどちらでもいい。
オリンピックでメダル取れなかったことは恥ずかしいことではない。「アスリートの残骸」として他人を働かせてピンはねするほうがよっぽど醜悪だ。この女の子は、メダル取れなくて幸せだったのかもしれない。
この人、少し休んだほうがいい。「電通案件となって生きる」のもいいが、人のためでなく自分のために生きるほうが楽しい。
問題は、「スポーツという価値」をいかに共有するかということだ。
僕らは、スポーツが素晴らしいものだということを知っている。
そしてテレビ喧伝される「感動をありがとう」を聞いていると、そのスポンサーの商品を買うことがスポーツを応援するような錯覚に陥る。
そうではない、私たちを自身を苦しめることになるのだ。そして選手自身も苦しむのだ。僅かな一握りのお猿さんは芸能界に入ってレポーターになる。それ以外は競技団体の職員とか大学の教授、ほとんど大部分は、どこかに消える。
問題は余りにピンはねされる金額が大きいということである。
「スポーツ選手」のセカンドライフ問題
なにかの仕事をしながらスポーツを頑張るとか、レッスンプロや地元のスイミングプールの指導者になって、生きるのだ。そちらの人生のほうが僕は好きだ。誰からも奪わないで、喜びをともに分かち合うのだ。
問題は、何もできなくなった時に何で食っていくかである。普通の会社員は年金が有るが、スポーツ選手や、芸人にはない(有るが満足な金額にはならない人がほとんどだ)。
アスリートは、余りに旬が短いのだ。あっという間に次の世代が追い越して新たなスターとなる。これがセカンドライフ問題である。
しかし、それでもスポーツをするのが好きな人の一人として生きるのだ。
スポーツには価値がある。
数年前の国体のゴルフの女子会場で、まだ高校生くらいの子供と家族(父母弟)が話しているのを見たことを覚えている。とても嬉しそうに、ここに来れてことを喜び合っているのだ。泣きそうになった。
その後レストランで、監督さんという人と同席した。レッスンプロとして生活をしながら、毎年の国体が楽しみなのだという。話の内にどんなにこのスポーツが好きなのか感じさせてもらった。
僕はそういう人が大好きなのだ。
2019年新潟国体の記錄室にて。はじめてのperlで大きな仕事をしたのだ。放心であった。
毎年、ほぼ半年はこれに掛かりきりになる。とても素晴らしい体験である。
しかし、生きるというのは難しい。