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土鍋が物を言う。朝4時の「ネギ味噌大根」

朝4時である。少し寝てしまった。大体、1時位から6時位までが一番仕事が捗る。昨日は妻がパートで10時くらいに帰るまでに汁を作ったのだがあまり美味しくなかった。
今朝起きた時に、その続きを食べさせるのは申し訳ないので大根を煮ることにした。

ネギ味噌とユルユルと煮た大根はお店では食べることも出来ない。ダシしも昆布だけである。大根が美味しい季節でないとこの味は出ない。
小さめの擦りバチですった。
ネギ型しないので足した。

オデンもいいいいのだが、僕が一番好きなのは「ネギ味噌大根」だ。
昆布と大根をジックリと土鍋で煮る。

一時間もかからない。大根に箸が通るようになったら火を止めてそのまま置く。土鍋が物を言うのだ。


うちの土鍋は一品である。土の密度が高く厚く重い。どの店に行ってもこの鍋と比類するものはない。何というのか何処のものなのかはわからない。随分昔に大事な友人から譲ってもらったのだ。

料理は、調理プロセスが大事。そして道具も大事。
しかし、一番大事なのは毎日続けるという決意である。どれこそが食事の価値なのだ。

庭から連れてきた花が散っておる。秋は何でも美味しい。


昆布も大根も名もないものである。豆腐も地元のもの。昆布は安い販売品である。大根は『土の中の生命と水』を持ってきてくれる。長い道のりを旅してここに来てくれたのである。
大事に迎えてあげよう。


昨今のグルメ様たちは素材の高級を競う。
何処かの殿様のようである。みな贅沢病で死んでしまうのだ。そしてその富は安い時給でヒトを雇って得たものである。自分の時間を売って人生を借りている(ローにクレジット、銀行残高に追い回される)可愛そうな奴隷たちは、フードサプライチェーンの食事で辛い人生の終わりを迎える。
「病因のない症状という病」に苦しめられて一人では何もできなくなっていく。食事こそがその源である。
やがて、「認知症と政治的な病名を与えられる。
管だらけにされて、病院やら施設やらの箱の中で一人死ぬのである。統計的に私達はそうなることになっている。

僕はまっぴらだから毎日料理を作る。
自宅である日コロリと死にたい。


ネギと味噌は地元のものだ。スリコギで叩くように味噌と合わせて行く。
このねぎ味噌こそが素晴らしい。ネギはそのままでは食べることが出来ない。生きるために他の生物の嫌う辛さを身体の海に持つのだ。しかし、味噌と合わせて叩いてやると素晴らしい美味しさに変わる。誰が見つけたのか知らないが、遠い昔に母に習った。父や母がネギを叩いている時に僕はすり鉢を固定する役であった。既に二人共ここにはいない。
思い出しながら何度も練習した。

豆腐があったので入れた。最高である。

絹ごし豆腐がいい。
美味そうじゃろ。美味いんよ。

少し熱があるような時はこれが一番である。


僕は幸せだ。売れないソフト会社の社長だから時間だけは自由に使える。妻・娘やマユ君には精一杯食事を作る。家族と共にピンコロの人生の終りを迎えたい。

昨夜は腹が減って買い物に行った。半額のパンも、カレーうどんも好きだ。
アトカタは、明日(4時間後くらい)にすることにした。

やっぱりおうちが一番である。

厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。