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2020年最後の調理:同じ釜の飯を食う

気がついたら、明日のマユのご飯がない。朝7時位には食べたがって起こされるので、今日(31日)の内に作ることにした。大晦日最後の調理である。

マユのご飯を作ろうと決心したのは2019年9月のこと。それから毎食を作っている。暇人だねえと言われるが、毎日家族の料理を作っていれば食べ残しや材料の余りが出るので丁度いい。

何よりも飼い犬の死に方が人にそっくりであることを知って気がついた。僕の食事メソッドに大きな影響を与えてくれた。

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細胞からみた栄養学という視点

オーソモレキュラーと言う考え方があるが、実に単純な生命のモデルで情けなくなる。全ての細胞が同じ様に振る舞う言う前提でロジックが組み立てられているのだ(注)。

そして、もっと深刻な問題は、「ヒトとそれ以外の生命が大きく違うという思い込み」である。万物の霊長は一味違うと考えたいのである。

細胞のレベルで見たら、分離学上の近縁はDNA(細胞のプロトコル)も近い。

そもそも「種」という概念が僕には辛い(笑)。

犬や猫が種という概念を持っているとは考えられない。

受精卵がどんな環境にいるかによって、どんな種になるかは決まる。工場で自動車が作られるのとは違うのだ。ライオンとヒョウの交配種はレオポンであるし、ラバは馬とロバの特徴を持っている。植物を見れば、挿し木という種を超えたキメラは何らおかしなことではない。

猿とシカが交尾すること「異常」とニューズウイークの記事では書かれているが、余りに「人間的」である。

古典文学や神話においてはヒトと他の「種」と言われる生命との間の愛情や交流は当たり前に描かれる。まさにそれこそがマイクロバイオームの目的なのだ。

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「同じ釜の飯」とは何であろうか

同じ釜の飯を食うと言う表現がある。苦楽を共にする固い絆表している。カンパニーの語源はパンを一緒に食べることだという。

マユと僕は同じ釜の飯を食べている(笑)。代謝系も似ているだろうし。マイクロバイオームにとっては行き来したい「生命というコロニー」である。よく顔舐められるのは意味がある。

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覚めるまで待ってタッパに入れるのだがジャンプして取ろうとする。嬉しそうに食べてくれるのが楽しい。

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10本の手羽先の先頭を茹でて2回(2日4食)の食事作りに使う。煮汁も鍋の汁にする(半分は明後日の料理に入れる)。数日前の「白菜と柚子の鍋」をベースにした。林檎の皮、わさび菜、白菜、野菜くずを入れてじっくりと煮る。僕の食事と同じ様に素材の持っている細胞の水を大事にしながら作る。基本的に「人がいない時代の犬の食物連鎖」の中で存在しない物は入れない。イカエビタコは食べさせない。魚は食べてもいいと思っている。ままで食べたがらないものは避ける。ネギが悪いと獣医は言うが、犬が食べたがらないことが重要だ。煮汁に入っている時は食べさせない。もし問題が起こったら僕が家族に同様の目に合わっせられる(笑)。塩分お話はまた今度。


食事は皮膚の内側に広がる「海」に溶け込み均一になる。腸から静脈(門脈)を経由して肝臓に入り込む(注)。

そして、細胞の内側に取り込まれて様々な代謝(常温での科学的変化)を行なう。身体と言うコロニーは、毎日100gの皮膚を滑落させる。粘膜組織は多くの揮発性の物質を外部に拡散する。

キスやハグやセックスは皮膚の内側に蠢く「蟲たち」を外部に漏らす。

同じ食事をするということは、皮膚の内側に蠢く「蟲たち」に同じ環境であることを伝えているのだ。

これこそが家族の意味である。食事をともにして、皮膚の内側の環境を同じくするのだ。コーシャ・ハラールという宗教の食事ルールの意味である。

家族という単位で宗教は現実において姿を表す。セックスと食事は象徴的なマイクロバイオームの交流である(注)。宗教的なルールとはコミュニティの安定を目的とした「律」である。

マユは家族なのだ。

こころなしかボリボリとドックフード食べさせていたときよりも嬉しそうに皿をなめる。

僕は家族とともにピンコロ人生をめざして食事を作る。

食事にはそれだけの価値が有る。下手くそであっても諦めなければすぐに美味しいものを作れるようになる。

マニュアルを暗記するのではなく、調理の「律(食材の生命を受け取れるためのルール)」を感じ取るのだ。それは自分の感じる美味しい料理であり、世界で一つだけの自分にとっての『正しい食事』なのだ。

家族の身体を考えることは、難しいことではない。料理に対しての意見を謙虚に受け止めて自分を変えることだ。

実に困難である。

まずは毎日食事を自分で作るがよろしい。

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(注)全ての細胞が同じ様に振る舞う言う前提....

おそらくこれが一番の問題点だ。80兆個の細胞というのは分化を重ねていくが『全体の設計図」に従って分化しているわけではない。周りの刺激にしたがって変化するのである(そう考えねば納得がいかない)。鮭が大海の中から変えるべき故郷を見つけ出すようにステップを踏んで刺激の内容は代わり、分化のステップは進む。長い進化の中でDNAにはどの刺激に対してどう動くかが蓄積されていく。それこそが適応である。

発生においても同様に考えればいい。細胞同士は利益相反する。そして互いに綱引きをしてフェイクを重ね、自分の勢力を大きくしようとする。細胞を擬人化することは強く戒めなければならないが、身体というコロニーの宇宙は複雑系の最たるものである。

「間違えることがない科学の曇った眼」には過去の亡霊しか見えない。本来の生命はうーんと豊かである。

長く進化論は、「全体の設計図がいかにに変わるか?」ということばかり論じていた。「全体の設計図」があるという前提である。そこから抜け出せないと「神様が作った宇宙論」から離れられない。

「なぜこの様に多彩な生命の形があるのか」と言う疑問は何ら疑問ではない。多彩な環境に適応してそこに生きようとするから、多彩な形が生まれるのだ。

分類学というのは不毛である。環境は常に変わり、生命はそこに満ち溢れようとする。新たな形の中で生命は生きるのだ。

珊瑚の形を仔細に分類しても意味はない。それは環境に対しての小さいサンゴ虫の作り出した姿なのである。サンゴ礁の姿はサンゴ虫の習性と自然環境の関数でしかないものを分類しても二度と同じものが現れないのだから使いみちのない知識である。

ヒトという細胞生命のコロニーに関しても同じである。正常も異常も生物学的には意味がない。社会を安定させるために必要なCODEではあるのだが。

過去の新科学者の中には、獲得形質が遺伝しないという実験を多いばりでしていた方々もいる(何世代も足を切っても子供は足がついてでてくるという)。愚かなことであるが、笑えることではない。この時代の専門家も同じようなことをしている。

(注)腸から静脈(門脈)を経由して肝臓に入り込む。

無論それだけが身体というコロニーに溶け込む道ではない。鼻腔内からも「匂い」と言う形で嗅覚組織に入り込む、呼吸という形で肺胞を経由して入り込む。

視覚も重要な影響を与える。エロい画像を見れば、その対象に引っ越したいと「マイクロバオーム」は「勃起、粘膜組織の充血」をうむ。

あらゆる情報の伝達は物理的な接触を介在する。神の啓示さえも何らかのきっかけが必要なのだ。お線香の匂いや荘厳な伽藍(またはその真反対)をあらゆる宗教は終着点とする。

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(注)食事とセックスは象徴的なマイクロバイオームの交流である

汲み取りトイレは、蝿を介在して「排泄物」を食卓に持ち込む。「肥たご」は汲み取りトイレの排泄物を地域でまとめて農作物を経由して食物連鎖の長道のりに入り込む。考えてみれば、蝿が排泄物の中に卵を生むのは蠅にとってのセックスだし「食べ物にスリスリする」のは蝿にとって「食事でありセックス」でもある。

サナダムシはヒトの排泄物を通してタマゴが鮭の幼魚に食べられ、海を回遊して戻ってきて食事を経由して人の腸と言う環境で生きる。

梅毒は新大陸での牛と交尾した男の体液を通じてヒトのコロニーに入り込んだと言われる。100年で世界に蔓延したという。大航海時代の交通事情のもとである。そこらじゅうで「ヒトは交尾したがる」が今に始まったことではない。

マイクロバイオームは乾燥環境においては、進化(生と死の繰り返しを通じて環境に適応すること)は難しい。身体と言う乾燥から海を守る仕組みの中で増えて地に満ちる。

ドーキンスは生物をDNAの乗り物と言ったが、もう少し前に進んでもいい。

「生命というコロニー」こそが、マイクロバイオームが統べるカプセルである。そして、このコロニーは環境にしたがって大きく形態を変える。

科学という「曇った眼」では、生命は「種」に分かれ「弱肉強食」などという愚かな社会法則を見る。輪廻転生の目で見ればもっと違ったものが見える。生命の連作おいては強い弱いなどということは関係ない。

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実質的にこの記事と一緒です(笑)。



厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。