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田原イコール物語1「311とマレーシア移住」

2011年3月11日。東北が大きく揺れ、僕の人生の世界線は、予想もしていなかった方向へ分岐した。

当時は、河合塾仙台校、水戸の智森学舎予備校、いわきの学樹舎という3つの予備校や塾で物理や数学を教える一方で、物理ネット予備校「フィズヨビ」で400人ほどの受講生に物理の講義動画を提供していた。

物理を分かりやすく伝える書籍の執筆依頼が来るようになっていて、毎年、1,2冊の本を出版していた。個人の生活として、そこそこ充実していたように感じていた。

そんなある日、突然、大地震と原発事故がやってきて飛び起きた。飛び起きてみてはじめて、今まで眠っていたことに気づいた。

3月11日、車で移動中に大きな揺れを感じた。広瀬川に架かる橋を渡る手前で停車し、揺れが収まるのを待った。宮城県沖地震が来ると言われていたので、それが来たんだと思った。揺れが収まったので、おそるおそる車を前進させて橋を渡ると、見慣れた長町の道路が陥没し、ガードレール道路側に倒れこんでいた。大変なことが起こったことが分った。電気や水道も止まり、復旧までどのくらい時間がかかるのか想像もできなかった。ガラスの破片が飛び散る室内に靴であがり、その日は早めに寝た。

3月12日、e-mobileが繋がることに気づき、ノートパソコンをネットに繋いで、原発事故が起こったことを知った。危機管理意識が一気に上がった。最悪の事態を想定し、家族の安全を確保するにはどうしたらよいかを考えた。チェルノブイリ事故で被害が及んだ範囲を調べると風向きによって被害は異なり、風下だと300キロ圏内で被害が起こったことが分った。自分が住んでいた仙台は、原発から100キロ。移動したほうがよいのではないかと思ったがガソリンが十分になかった。自転車で近くを走り回り情報を集めに行った。ガソリンスタンドは停電でポンプが作動せず給油できないということだった。家に帰ってネットで調べると、非常用のディーゼル自家発電が設置されているガソリンスタンドがいくつかあることが分った。自転車で見に行くと、ものすごい列ができていた。予備校の同僚とメールでやり取りしたら、仙台から車で山形に帰ることができたと教えてくれた。高速と一般道でそれぞれ通行止めの箇所があるが、うまく乗り継げば山形まで行けるということだった。今、やるべきことは何か、頭がフル回転していた。

3月13日の早朝5時、ガソリンスタンドの列に並ぶことにした。車で移動できるかどうかが明暗を分ける可能性があると思った。5時から並んで給油できたのは12時過ぎだった。2000円分に制限されていたが、とりあえず山形まで移動できるだけのガソリンが補給できた。家に余っていた灯油を保育園の友達にあげて、13日の夕方、スーツケースにとりあえずの荷物を詰め込んで山形に向かった。山形に着くとガソリンスタンドは普通に稼働していたので、満タンまで給油し、ネットで予約したホテルにチェックインした。原発事故の被害がどこまで広がるのか分からない中、最悪の事態を想定して、そこに対応するにはどうしたらよいか頭をフル回転させていた。とりあえず山形空港に行ってみると、東京や関西へ飛ぶ臨時便が出ていてキャンセル待ちの状態になっていた。徹夜でキャンセル待ちの列に並ぶことにした。14日の朝、臨時便で山形から大阪へ飛んだ。

空港からネットでウィクリーマンションを探すが、大阪の物件は空きがなく、兵庫県の尼崎のウィクリーマンションを予約した。予備校の同僚の安否が気になって、空港からネットに繋いで災害掲示板を立ち上げて安否確認やガソリンスタンドの状況などを共有できるようにした。ヘトヘトになりながら尼崎について中華料理屋に入ったら、大画面のテレビに津波の映像が流れていた。4日間、ずっと危機感を立ち上げていてヘトヘトだったので、「すみません、テレビを消していただけますか?」と頼んだ。勘定を済ませようとしたら、店主から「私たちも阪神大震災を経験したので、お代はいりません。」と言われた。頭を下げて店を出た。あのとき、東京に住んで学生をやっていた自分は、阪神大震災を遠い地域の出来事のように捉えていたことを思い出した。水戸の予備校の同僚から安否確認の電話が来た。彼の実家は陸前高田であることに気づいてハッとした。自分が狭い範囲でしか考えていなかったと思った。

尼崎のウィークリーマンションで2週間ほど過ごしながら、ネットで情報収集をしていた。原発事故や放射線のことなど、それまで考えたこともなかったので、どう考えて、どの程度リスクを想定して、どう意思決定をすればいいのかが分からなかった。ネットで調べていくうちに、国内メディアが伝えていることと、海外メディアが伝えていることとの内容の違いに気づいた。そのときに感じた違和感は、風向きによって放射能汚染がどのように広がるかを示すスピーディの情報が隠されたことが分ったときに決定的になった。「パニックになることを防ぐため」と言っていた。そこに住んでいる人間のいのちよりも、別のものが優先されているのだと思った。それにも関わらず「あなたのためですよ」と言ってくる様子が、DVの親が子供に「あなたを愛しているから殴っているんですよ」と言っている姿と重なった。

自分は、この国で生まれて、日本語情報を吸収して自分を形成してきた。その中に、どれだけの情報操作があったのだろうか、それをどのくらい無自覚に吸収してきてしまったのだろうか?

一度、それを吐き出さないと、これからの人生が形成できないように感じた。

マレーシア移住を考え始めた。

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