プロジェクト・センタード・デザイン(その1)

近代社会の終焉

近代社会が、上から、外から、遠くから、「社会の正しさ」を押し付けてくるのに対し、参加型社会は、下から、内から、近くから、一人ひとりの想いを社会化していく方法論である。

『参加型社会宣言』の序文で、橘川さんは次のように宣言する。

上からではなく下から。外側からではなく内側から。遠くからではなく近くから。全体からではなく個人から。制度からではなく思いから。アルゴリズムからではなくライブから。組織からではなくバンドから。権威からではなく親しみから。多数からではなく少数から。

近代社会の方法論は、中央集権的な組織論と、それを支える画一的な教育論から成り立っている。

中心に情報と権力とが集中すると、中央のみが発信力を持ち、周辺は中央から発信される情報を一方的に受信することになる。

受け止め方にばらつきがあると、中央の意図通りに受け取られないので、画一的な教育により、考え方を均一にし、中央から発信される情報が、一通りに受け取られるようにする。画一的な教育とは、「従順な被支配者」を育てる教育でもある。

放っておけば多様化するのが生命の持つ性質であるから、「画一化」は、不自然な営みであり、そこには、ある種の「暴力」が伴う。

一人ひとりの自由な発想を制限し、社会で定められたように感じたり、考えたりするようにするために、社会に設定された序列によって条件づけられる。社会に設定された「正しさ」を忠実に身につけるほど、情報と権力とが集中している特権的な位置である「中心」へ近づくことができるのだ。

近代社会とは、人々が、「中心」の持つ希少価値を争い、勝者が中心を占め、敗者が周辺に追いやられるという競争に夢中になっているうちに、いつの間にか我を忘れていく社会なのだと思う。

情報化によって、「中心」に閉じ込められていた情報がインターネット上に溢れるようになり、個人がそれぞれの関心に沿って情報を収集し発信する力を持つようになった。

多様な個人同士が繋がり、価値共創ができるようになると、画一的な社会秩序に従わずに生きることが可能になる。つまり、一人ひとりが分散して権力を持つようになる。

「中心」に集中していた情報と権力が、脱中心化していく流れが進むと、近代社会が成立していた前提条件が崩れ、近代社会が終焉する。

しばらくは過渡期が続くだろうが、確実に次の社会の方法論が出現するだろう。私は、次の方法論が参加型社会だと漠然と直感しており、2021年に、橘川幸夫さん、平野友康さん、高野雅晴さんらと共に参加型社会学会を立ち上げた。

参加型社会における個人

参加型社会における個人とは、「近代的自我」という概念の鎧で身を固めた個人ではないだろう。それを社会の単位にすると、近代社会が再生産されるだけだ。

「近代的自我」とは、画一的な教育の土台の上で、近代社会の「中心」が発信した情報をもとに形成されたものだ。そこには、「中心」から発信された「正しさ」がべったりと張り付いている。

そこから抜け出して、次の段階に行くためには、一人ひとりが実感した想いを発信し、相互に受信する必要がある。多様な状況にある当事者が、現場で実感した想いを報告し合い、受け取り合うことで、同じ時代を生きている他者を自分の中に直接吸い込んで、結晶化させていくのが、参加型社会における個人だと思う。

橘川さんは、これを端的に

人間は、二つの目、鼻、耳で世界を吸い込み、心で咀嚼して、たった一つの口で断言する。

と言語化する。これを「世界を深呼吸するということだ」ということで、数多くの「深呼吸する言葉」を、日々、吐き出している。

社会秩序の中で権威付けられた情報ではなく、同時代を生きる様々な人の実感のこもった想いや言葉を吸い込み、自分自身も同時代を生きる人間の一人として社会に向けて言葉を吐き出し、その「深呼吸」を通して常に更新され続けていく橘川さんは、参加型社会における個人のプロトタイプである。

自分が世界を吸い込むとき、私は「誰か」の影響を受け、そこから学ぶ。その「誰か」は、私の教師である。私が世界へ言葉を吐き出すとき、その言葉を受け取ってくれた「誰か」に影響を与えている。そのとき、その「誰か」は私の生徒である。

世界を吸い込み、言葉として吐き出す深呼吸をするたびに、教師ー生徒の関係が入れ替わっていく。

参加型社会における「学校」とは、同級生とお互いに学び合い、お互いに影響し合う体験を通して、社会の中で「深呼吸」できる個人、つまり、参加型社会における個人へと育つ環境なのではないかと思う。それは、特定の知識やスキルを身に着ける「近代社会の学校」とは異なり、身体と心の動かし方を学ぶ道場に近いものであろう。

社会的バンドを組んで想いを発信する

同時代を生きる当事者としての個人の実感を受信し、自分の中で生まれた想いを発信するときに、有効な方法が「社会的バンド」である。

もちろん一人で発信することもできるし、それも重要な手段だと思う。一方で、想いで共振共鳴した仲間と「社会的バンド」を組むと、一人ではできないことができるようになり、発信の可能性が広がっていく。

一人ひとりの想いの発信力が高まっていくということは、一人ひとりの想いが社会化されていくことだ。固く構造化された社会に適合して、そこに合わせて生きていくのではなく、一人ひとりの想いを社会に蓄積し、相互に影響し合って「制度化」していくのだ。

社会的バンドを組んで想いを実現するプロジェクトが、参加型社会の基本単位になるだろうと思い、次の記事を書いた。

プロジェクトチームは、想いを実現するために必要なことを世界から学び、自分たちなりに結晶化して、自分たちなりに意味のあるもの、価値のあるものを世界に吐き出す。

吐き出したものは、別のプロジェクトチームの糧として吸い込まれ、そのチームの血肉となり、再び別の形で吐き出されるだろう。

参加型社会とは、森の中で炭素の循環が起こるように、プロジェクト生態系(エコシステム)の中で、想いのこもった情報が循環するプロジェクト・エコシステム社会なのではないだろうか。

プロジェクト・エコシステム社会は、何を中心に据えてデザインをしたらよいのだろうか?と考えていて、先週、社会的バンドによる参加型プロジェクトを中心に据えた、プロジェクト・センタード・デザイン(PCD)というものを考えた。

次回、プロジェクト・センタード・デザインについて説明しようと思う。

プロジェクト・センタード・デザイン(その2)はこちら

8月27日20時からの参加型社会学会のイベントでも、PCDについて少し話します。

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