見出し画像

ファッション業界の癌

この世の中に「服が嫌いな人」はいるのだろうか。

アダムとイブが蛇にそそのかされて林檎を食べた時に、自分たちが裸だと気付き、イチジクの葉で腰を覆ってから月日は流れ2019年。私たちは衣食住の生活に沿って当たり前のように服を着てきた。ほぼ世界中で人間は服を身に纏っている状況で、好き嫌いという概念では論争にならないかもしれないが、「服が嫌い」という人がいてもおかしくないのではないかと思った。本当は服が嫌いで裸で生活をしたい人がいるかもしれない。もし身近にそんな人がいたらぜひ教えて欲しい。なんで嫌いなのか。

こんなしょーもないことを思いながら、最近は親指のスクロールで服を消費する毎日である。インスタグラム、ツイッター、フェイスブック、あらゆるSNSでスマホに表示されるファッションの写真をながら見で消費していく。そんなことをしていたらあっという間に時間が過ぎてしまった経験は誰しもあるだろう。自分自身も最近はこの習慣がキツくなってきた。というのも、本来やらなくてはいけない仕事などが集中できなくなってしまっている気がする。つくづく反省するばかりである。しかし、ファッションはスピードが命である。毎シーズン毎シーズン新しい服が作られ、トレンドが生み出され、世界中に広まっていく。パリコレはリアルタイムで映像が配信され、それと同時にファストファッションはさらにサイクルを早めてトレンドの服を量産していく。デザイナーも、パターンナーも、工場も、ファッションに関わる全ての人間が疲弊していくのは目に見えているにも関わらず。もはや癌である。

渋沢栄一の「論語と算盤」という本がある。2024年から使われる1万円札の肖像で知っている方も多いだろう。論語とは道徳、算盤とは経済を表す。ファッションと全く関係ないように思えるが、この本がこれからのアパレルに非常に大切になってくる。ファッションを通して「人がより良く生きるには」どうしていけばいいのか。本来、論語は孔子の儒教であり道徳や哲学を説いたものである。一方算盤は数字の計算をするための道具、つまり経済そのものを表している。「ありがたい教えだが役に立たない」「お金儲けだが卑しい」全く真逆の言葉が二つ並んでいる。だがこの二つが一緒じゃないと意味がないというものを説いたのがこの本である。「意志ある者が知恵を身に付け、情愛を持って分ける」これをして初めて「完き人(素晴らしい人)」になる。しかし、情愛を持てず財を独占する人は「ただの偉き人」でしかない。つまり、「知=知恵」「情=情愛」「意=意志」この「知情意」と言うのが無いといくら結果を残しても、いずれ足元をすくわれ地に落ちてしまうと言うのが渋沢栄一の教えである。

さてどうだろうか。この教えに対してどうしても昨今のファストファッションが引っかかってしまう。以前の記事にも上げたファッション史上最大の死者を出してしまったラナ・プラザの悲劇。今問題になっている海洋上の6割が服の化学繊維だとされているマイクロプラスチック問題。意志と知恵だけを推し進めた結果が今悲惨なことになっている。民主主義の時代に生きていくためには確かにお金は大事である。しかしそのお金の使い方が問題で、私利私欲のために肥やしては結果として取り返しのつかないことになってしまう。服を生み出す側も、買う側も、知情意を持って取り組まなくてはいけないだろう。

意志と知恵を推し進めただけの者の成功は一瞬でしかない。悪名は後世に残り続ける。ただそこに情愛を持って接した人は後世もちゃんと語り継がれる全き人になれるのであろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?