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鶴川・柿生・横浜市青葉区周辺フィールドワーク(続)

前回の鶴川・柿生・横浜市青葉区周辺フィールドワークの投稿に対して友人から、
「鶴川からこどもの国までのあたりは地味目の横穴墓とか古墳が多く、郊外の味気ない風景とおかしなハーモニーだ」という指摘をもらった。

今読んでいる柳瀬博一『国道16号線 「日本」を創った道』という本の中にまさにその答えが書いてあったので、その意訳を文章化してみた。

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国道16号線沿いには旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡や貝塚、古墳、さらに中世から近世にかけての城が多い。鶴川・柿生・横浜市青葉区あたりも広義の16号線沿いエリアに含まれる。

まず近代までは「山と谷と湿原と水辺」が人間(日本人)の生活のための最高の条件だった。

大河川近くの平野や海岸沿いの低地は氾濫・水害の危険があるが、
小河川流域の丘陵地に居を構えれば、谷を下って沢へ出れば飲み水の確保が、水場に来る獲物の狩猟ができる。河を堰き止めたり流れを変えれば稲作も可能。河川による物資運搬の利便性もある。

同時に拠点防衛に有利なため中世以降の多くの城が建てられた地形で、だからこそ柿生離宮の候補地にもなった。

それをふまえると柿生・鶴川から県境をまたいだ横浜市青葉区までの一帯の地形などはまさに一等地だったため、幅広い各時代の痕跡が密集して見つかるのは納得できる。

さらに戦後の住宅不足から都市周辺に上下水道が敷かれ電車が敷かれ道路が整備されて住宅が建てられ、それまでの定住に不向きな地形でも生活できるようになった「郊外」が、地形の歴史の一番上に蓋をするように乗っかっており、現在に至っている。

さらに加えると16号線沿いは大学も多い。
鶴川・柿生・横浜市青葉区周辺も日本体育大学、横浜美術大学、昭和薬科大学、玉川大学などのキャンパスがある。
その理由として、60年代の学生運動への対策として運動の激しかった大学を都心から(主に東京都西部に)物理的に遠ざけたこと、
60〜70年代に拡大した郊外で生まれた子供世代の教育機関の必要性、
バブル期の都市部の地価高騰(郊外なら広い敷地の確保が可能)などが挙げられる。

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