境界としての「輪」の氷解と昇華、そしてルーツへの着地(『思い出のマーニー』について)
『思い出のマーニー』
(※ネタバレあります)
派手ではないが丁寧に作られた、陰影を多く含みつつも前向きなひと夏の成長の物語。
アニメとともにジョーン・G・ロビンソンの原作も読んだ。
原作のアンナはアニメでは映像として視覚的に表現される行儀の良さや女の子らしい立ち居振舞いが欠けている点を差し引いても、
孤独感を抱えており思慮深い点は共通するが、子供っぽいずるさや野生味を併せ持った造形だと感じた。
また原作で特筆すべきは物語終盤にマーニーの謎が明かされるくだりで、湿っ地屋敷の新たな住人が五人兄弟(アニメでは二人。アニメで描くにはキャラクター数が多すぎるだろう。)でその両親とともにアンナと仲良くなる点だ。
この賑やかな一家がアンナを「輪」(物語冒頭でアンナが孤立・疎外感を表すため用いる比喩)の内側へ迎え入れる役割を果たしている。
さらに一家は屋外で屋敷の油絵を描いているマーニーの友人の女性とも知人であり、
この女性は屋敷に招かれて夜遅く蝋燭の灯りの元でアンナと一家の前でマーニーの生い立ちの長い話を語り、
結果マーニーとアンナの関係がパズルが合わさるように判明するという展開はアニメとはまた異なる多幸感に満ちていた(アニメでは屋外での立ち話となっていた)。
期間限定の保養地への滞在中における、
他者の共同体(「輪」の内側)への所属、
養母へのわだかまりの氷解、
忘れていた過去の思い出しと自らの血縁的ルーツへの再登録、
そして誰もがどこでも「輪」の内側にも外側にもなりうるという気付きによる長く抱えてきた疎外感の昇華。
それらひと夏のイニシエーションを経て、
アンナは人間的にひと回り成長し再び元いた場所へと帰還する。
ただ原作と異なりアニメは作品の舞台を現代の日本に移したため、マーニーの人物造形が作品のノイズになっているという批評があることも理解できる。
あの見た目の子が現代の北海道の地方にいたらいくら他者との距離感に敏感なアンナでも少しは身元を尋ねるだろうし、
さらにマーニーの両親や屋敷のパーティーの参列者たちはいくら何でも浮世離れしすぎている(ここは映画『シャイニング』の亡霊たちの宴を連想した)。
マーニーがただのアンナの想像の産物ではないと言わんばかりの繰り返しの身体的接触だけでなく、
所有物(短冊など)による接触の機微、
髪留めで前髪をまとめること、
アンナが描く絵、
などで映像としてアンナと他者との距離感を過剰なほど丁寧に積み上げている作品だけに、
屋敷の人々が半世紀程前の北海道の地方に実際に暮らしていたのだという現実の歴史に裏付けられた実在感が今ひとつな点がノイズの原因だろう。
しかし多少の気になる点を除けば今回改めてアニメを観直し原作も読み、この作品の魅力にかなりハマったのは事実だ。
『時をかける少女』のように夏の定番アニメになるくらい評価されてもよいのでは、とすら感じた。
こじつけるわけではないがアンナは実際に「時をかけて」いる。
タイムリープ演出は派手ではなくシームレスで、起こる契機も分かりづらく場所は限定的だが。
そして相手は未来から来た少年ではなく、過去の少女だ。
ファンタジー込みだが基本は等身大の現代劇なため鑑賞者の年齢・性別によって別の顔を見せ、
さらにはその人の人生に寄り添うような深い射程を持ったテーマを作中に含んでいる。
さらに主題歌の歌詞などは作品にハマりすぎているだけではなく、不登校、失踪、引きこもり、孤独死(ジョン・クラカワー『Into the Wild』のような)などにも意訳できてしまうような内容をオーガニックに美しく歌っているので寧ろ怖しくすらある。
個人的にも今後何年かおきに観るはずだ。
【参考・引用】
▫️ジョーン・G・ロビンソン 越前敏弥・ないとうふみこ訳『新訳 思い出のマーニー』
(2014 KADOKAWA)
▫️スタジオジブリ・文春文庫編『ジブリの教科書20 思い出のマーニー』(2017 文藝春秋)
▫️TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウイークエンドシャッフル」
2014年8月9日放送分
週刊映画時評「ムービーウォッチメン」
https://youtu.be/dSb6SiIjsog?si=FE_ATMskaeCYKcAm
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