見出し画像

災害遺構へのリノベーション——東日本大震災の震災遺構保存活用デザインプロセスから

本江正茂

『建築の研究』2021年10月号所収
本稿は、一般社団法人建築研究振興協会 の機関誌『建築の研究』(2021年10月号 No. 258)に掲載された同名の記事を、同会の了解を得て転載したものである。記して感謝する。

本江正茂: 災害遺構へのリノベーション——東日本大震災の震災遺構保存活用デザインプロセスから, 建築の研究, No.258, pp.27-31, 建築研究振興協会, 2021.10

写真キャプション:
山元町震災遺構中浜小学校全景。海から約400m。今は何もない後背地には、かつて約300世帯に1000人以上が暮らす中浜地区の町があった。手前に見えるのは、毎年の3月11日の太陽の運行に合わせて作られた日時計のモニュメントである。(写真:東北大学災害科学国際研究所)

はじめに
東日本大震災の発災から10年が経過し、被災地ではようやく続々と震災のメモリアル施設がオープンしはじめている。単独のモニュメントや、遺物や情報の展示を中心とした展示施設、語り部の話を聞くことを中心とした伝承体験施設、そして、直接被災した建築物を保存活用した災害遺構などがある。
筆者は、東日本大震災で津波の被害を受けた宮城県山元町の中浜小学校を震災遺構として整備するにあたり、はじめ震災伝承検討委員会の委員として関わり、その後の保存活用基本計画の策定および具体的な展示計画のデザインディレクションを担当した【参考文献 1】。また仙台市の3.11メモリアル交流館や震災遺構仙台市立荒浜小学校の整備にも理念形成の段階から具体的な企画設計まで参画してきた。本稿はそのデザイン実践の経験から、被災建築を保存活用する災害遺構のデザインについて述べるものである。


すべての災害遺構はリノベーションである
用途の変更を伴う建築の改修をリノベーションと呼ぶ。とすれば、すべての災害遺構はリノベーションである。新築することはできないし、移築してくることもできない。あらかじめ計画しておくこともできない。ある建物が、その場所で、ほとんど不意打ちのように被災してしまうことによって、その建物は災害遺構となる資格を得る。しかし、資格があっても実際に遺構として保存されることになるとは限らない。
被災する前には、その建築は何らかの役割を担ってその場に建っていたのであり、社会的な意味を持っていたはずである。それが、被災によって突然に当初の役割と意味が失われる。被災して使用できなくなった建物は、しばらくの間放置される。そして様々な理由から、遠からずほとんどが解体・撤去される。発災後10年以上を経ても解体も再使用もされることなく廃墟の状態のまま放置されてあるものも少なくないが、これらは災害遺構とは呼ばれない。また、被災していても元の用途で使われ続けているなら、それは遺構ではない。
災害遺構とは単に被災した建物のことではない。使われていた建物が被災し、被災したにも関わらず解体されないで残され、保存対象として発見されて、集合的な記憶の装置として、すなわち災害の伝承、復興の象徴、犠牲者の追悼、かつての生活の記憶、地域の災害文化等々を担い、災害への想像力を喚起し、防災意識を啓発するものとして、社会的に新たに意味づけられ、用途を変えて改修されて、すなわちリノベーションされて、はじめてそれは災害遺構と呼ばれることになるのだ。


保存のデザイン、活用のデザイン
このことを、文化社会学の小川伸彦は、一般論としてモノには「本来の用途で使用されている状態、廃棄物の状態、保存されるべきものとされた状態」の三態があるとし、「今回被災地で起きているのは、本来の用途で「使用」されていたものの多くが災害により法的にも「廃棄物(=ゴミ)」になったにもかかわらず、その一部が「保存」対象に転換されようとしている、という認識の組み換え実践」であり、その認識をつくったのが東日本大震災の後からはじめて使われるようになった「震災遺構」という新しい言葉であったと指摘している【参考文献 2】。
ある環境で、何らかの意味を持って使用されていた建築が、災害で被災してその意味を失い廃墟となる。その災害は、環境そのものを変化させ、また同時に多数の廃墟を生み出す。この状態から、災害遺構のデザインが始まる。当然のことだが、災害なくして災害遺構のデザインはない。
その多数の廃墟の中から、特定の廃墟に特別な可能性を見出して保存すべきものと選定し、社会的合意を取り付けて保存するか否かを決める。これを「保存のデザイン」と呼ぶことができるだろう。私的な被災建築物ならば、私的な判断で私的に保存すると決めることもできるが、より強い社会的影響力を持つ公的建築が対象であるならば、保存のデザインが重要である。すべての廃墟を保存することはできないから、特定の建築を選ぶことになり、何をなぜ残すのか/残さないのかの合意が必要である。被災建築を保存することは、往々にして遺族等関係者の心理的な負担になる。逆に解体することが負担になる場合もある。経済的にも、その土地の他の目的での利用機会を奪うことになるし、長期にわたって発生する維持管理費用を誰がどう負担するのかという問題もある。また物理的に、破壊された状態のモノを長期にわたって壊れたままの状態に保つというのも、災害遺構ならではの特殊な問題である。これらの諸問題の調整が「保存のデザイン」である。
「保存のデザイン」に失敗すると、その廃墟は失われる。実際、多くの廃墟が保存されることなく解体・撤去された。もちろん、熟慮の末、保存しないことに決めることもまた「保存のデザイン」である。
保存されることになった被災建築に対し、元の環境における元の意味との差異を測りながら、復興していく新たな環境の中でこの建築が担うべき新しい意味を与え、再び使用できるように改修し、完成後も随時更新していくことを「活用のデザイン」と呼ぶことができるだろう。一度は意味を失った建築を、その潜在力を活かした新たな意味を与えて使用できるようにすることから「再使用」ではなく「活用」と呼ぶことが妥当だろう。
建築は、寸法が大きく、また移動することが困難だから、同じ遺物でも雑貨や衣服などのように、そのままケースに入れて観覧に供するというわけにはいかない。建築ならではの物理的、法的、経済的、社会的な措置が必要になる。相反することが避けられないこうした措置を適切に取ることで、災害遺構としての価値を最大化することが「活用のデザイン」である。
被災建築に新しい意味を与えるための「活用のデザイン」に失敗すると、十分な社会的価値を創出することができないまま、コストばかりが発生することになる。建築は適切に運用されないと価値を発揮できないし、環境も変化していくので、時宜に応じて運用方法を更新し続ける必要があり、その持続的営為もまた「活用のデザイン」である。
災害によって従前のようには「使用」できなくなって「廃棄物」となった被災建築を「保存」する。そしてさらに、災害後の環境のなかで新たな意味を与えて再び「活用」するために、災害遺構としてリノベーションする。災害遺構のデザインはリノベーションのデザインであり、「保存のデザイン」と「活用のデザイン」の総体である。両者はステークホルダーが異なり、よって立つロジックが異なるため分断されがちだが、「保存活用デザイン」として連続的に行われるべきものである。

リノベーションは世界の変容を告げる
単に、災害に関する情報を提供するための展示施設や、災害を擬似的に追体験させるための学習施設であるならば、新築でも可能である。むしろ、提供されるコンテンツに最適化された空間を用意するためには新築の方が望ましいだろう。実際、多くの災害メモリアル施設が新築され、その役割を果たしている。にもかかわらず、被災した建物それ自体を保存し、災害遺構として整備し、その空間を体験させようとするのはなぜか。新築のものにはない、どんな独自の価値があるのだろうか。
ひとつには、災害遺構それ自体が強力なコンテンツだから、という説明が可能だろう。それ自体が災害の痕跡であり、簡単には壊れないと考えられている大きな建物が無惨に破壊されている異形の姿を見せることで人々を驚かせ、災害の脅威を生々しく想像させる喚起力があると考えられているのだろう。
そして、災害遺構をリノベーションの一種であると位置付けることで、もう一つの意味が見えてくる。一般に、既存の建築を活用するリノベーションは、解体して更地にしてから新築するのとは違って、その建築の元の意味や周辺環境との関係に基づく建築の文脈を継承した上で、新たに与えられた意味を表現することになる。これによって、同じ建築でありながら、かつての意味と新しい意味との間に大きなギャップがあることが強調されることになる。そのギャップの大きさが、建築のおかれた世界、すなわち我々が今いる世界が、かつての世界とどれほど変わったのかを鮮やかに示す。つまり、リノベーションは世界の変容を告げるのである。
スペインのコルドバにメスキータという巨大なモスクがある。8世紀からこの地を支配したイスラム勢力によって建設されたものであり、赤と白の縞模様のアーチをいただく列柱が連なる広大な礼拝堂で知られている。この印象的なアーチの空間を進んでいくと、突如、絢爛たるキリスト教大聖堂の身廊の空間に出る。これは、1236年にレコンキスタによってキリスト教勢力がコルドバを奪還すると、メスキータはキリスト教の礼拝堂として使われるようになり、16世紀にスペイン王によって内部にめり込むようにして求心的な聖マリア大聖堂が増築されたことによる。航空写真を見ても、相当に乱暴な増築であることはわかる。他にも敷地はあったであろうに、なぜこのような無理をしたのかと言えば、かつてのモスクをあえてリノベーションしてカテドラルにすることで、この地がイスラムではなくキリスト教によって支配されていることを、より鮮やかに示すことができるからだろう。
同様の事例は現代にもある。ロンドンのテムズ河畔にある近現代美術館テート・モダンは、かつてのバンクサイド発電所であった建物のリノベーションである。誰もが知る印象的な煙突を持った発電所を、外観をそのままに残し、また巨大な発電タービン室をそのままのプロポーションでメインのインスタレーション空間としている。かつて、世界の工場たるロンドンの工業生産に寄与してきた発電所の建築が、その役割を終えたのち、現代美術館にリノベーションされることで、ロンドンが工業生産から芸術=情報の生産へと主力産業を変化させたことを象徴的に示しているのである。
1986年に操業を停止したドイツ最後の炭鉱ツォルフェアアイン炭鉱とそのコークス工場は、産業遺産として整備されると同時に、当時からの建築が、現代美術館、プロダクトデザインのミュージアム、デザインスクールへとリノベーションされている。これもまた地域の産業構造の変化をリノベーションによって鮮やかに示している事例だと言えるだろう。
リノベーションは世界の変容を告げる。リノベーションによって、ある建築が姿をそのままに用途を更新することで、新築の建築には不可能な鮮やかなやり方で、象徴的に、その建築の文脈の変化、建築と環境の関係の変化、環境そのものの変化を一挙に表現することができるのである。
災害遺構はリノベーションであり、被災した建築を見せるものである。と同時に、その建築がかつてあった環境を、すなわち今は失われた環境を想起させるものである。津波災害危険区域の広大な空き地に忽然と建つ学校を見るとき、なぜこれがここにあるのかと違和感を禁じ得ない。遺構となった学校は、かつてこの学校に通った人々の暮らしがそのすぐ周りにあったこと、そしてそれが失われたことを、つまり世界の変容を、我々に告げるのである。

災害遺構は復興の最後に整備される
災害遺構は、被災地域の復興の進展に先駆けて整備することはできない。居住環境や産業施設の再建が優先されるから実践的な意味で後回しになるということでもあるが、より原理的に言えば、災害遺構がその意味を十全に示すには、周辺環境が被災直後の状態から、元の世界あるいは元の世界に近しい状態へと回復されており、災害遺構とコントラストがある状態になっていなくてはならないからである。
佐藤翔輔は、東日本大震災の震災遺構の保存解体に関する議論を分析し、「発災後に比較的早くに話題になり(記事になり),ネガティブなストーリーが存在するものは,解体されやすい傾向が見られ,話題になるのが比較的遅くポジティブなストーリーがあるものは保存されやすい傾向にある」と指摘している【参考文献 3】。被災によって対象が帯びるストーリーをネガティブであるかポジティブであるかを事後的に操作することはできないから、保存のデザインでは議論のタイミングが重要になる。災害遺構は周囲とのコントラストによって初めて、その意味を表すから、周囲が生々しい被災状況のままでは、その建築が遺構となった状態を正しく想像することは容易ではない。ネガティブなストーリーを持っていて、保存に抵抗がある場合にはなおさらだ。保存の議論を急がないと解体されてしまうと焦ることは理解できるが、急ぎすぎてはいけない。時間をかけて変化する環境と遺構との関係を考える文脈が成立するのを待つことが必要になる。だから災害遺構が整備されるのは復興の最後になるのだ。


安全かインパクトか
災害遺構の候補となる対象は、被災して破壊されている建築なので、そのままでは安全ではない。体育館など鉄骨造のものは津波による躯体の損傷が激しく、また海岸に近い立地では急速に腐食が進行する可能性も高いので、保存は難しく、多くは時を待たずに解体されていった。木造はそもそもほとんど残っていない。これらに対し、鉄筋コンクリート造であれば、津波を受けていても躯体は健全な状態を保っていて、破壊されたのは二次部材だけという場合も多い。幸いにも荒浜小学校も中浜小学校もそうした例であったから、来場者を内部空間に迎え入れるための必要条件は満たしていた。
とはいえ、脱落しそうな天井の下や、倒れかかった間仕切り壁の脇を、観客に歩かせることはできない。ここに保存のデザインと活用のデザインのコンフリクトが生じる。保存の観点からは、その改修設計はどうしても(当然ながら)安全確保最優先となり、施工や維持管理のしやすさを重視する。一方、活用の観点からは、その展示設計は、破壊された状態をありのまま見せることのインパクトを重視し、後からの加工部分の存在感をなるべく消そうとする。例えば、破壊された天井や間仕切りなどの二次部材をどこまで撤去しどこまで残すのか、ガラスの割れた開口部に張る鳥除けのメッシュをどんな目にするのか、津波に流されて柱に絡み付いた鉄骨にどんな錆止めを施すのか等々、具体的な設計の段階で様々なコンフリクトが生じることになるのだ。
建築のハードウェアとしての「保存のデザイン」ばかりを先行して進めてしまうと、その後で「活用のデザイン」をしようにも肝心の被災状態を示すものがまるで残っていないという状態になる恐れがある。両者はコンフリクトを起こし、トレードオフの判断を繰り返すことにはなるけれども、同時に並行して進めることが必要である。生じた問題に対しては、ひとつひとつ災害遺構保存の基本計画に示される理念に立ち返って議論しながら、インパクトを保ちつつ十分に安全な状態を作り出すデザインを進めていかなくてはならない。


災害遺構に建築基準法は適用されるのか
あまり論じられないが、実践的には、災害遺構を法的にどう位置付けるかという点も問題になる。例えば、学校建築の場合、廃校にともない建築基準法上の用途は学校ではなくなる。では、災害遺構とは何なのか。
仙台市震災遺構荒浜小学校では、学校から展示場等へ用途変更している。荒浜小学校は4階建てで、2階まで津波が浸水した。そこで1階・2階をエリアを限定して破損状態を見学できるようにし、3階は封鎖して、4階の教室を展示に利用している。上層階に展示があるので、従前にはなかったエレベータを設置した。そして、被災時に多くの人々が避難した屋上にも出られるようにしている。荒浜小学校は災害遺構であると同時に、将来の津波が襲来した際に近くに居合わせる人々が駆け込むための避難タワーでもあるから、入り口の扉が施錠してあっても、緊急時には扉のアクリル板を割って鍵を開けて入ることができるようになっている。被災した状態を見せるという目的のみからすれば必ずしも優先順位の高くない諸条件を引き受けながら、用途を変更しているのである。
これに対し、山元町の震災遺構中浜小学校では、用途変更では新たに様々な規制がかかってくるために「被災した校舎の現状を可能な限り保全する」という基本方針を通せなくなる可能性があることから、建築基準法の適用除外を目指すこととした。宮城県建築宅地課や消防署と協議しながら、新たに町条例を定め、校舎を建築基準法第3条1項3号の規定による「保存建築物」となることを狙ったのである。この条項は主には歴史的建造物を想定しているものだが、3号規定において「条例の定めるところにより現状変更の規制および保存のための措置が講じられている建築物」も対象としているのである。この手法による遺構保存の先行例には気仙沼市の旧向洋高校(現在の気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館)があげられる。
山元町は2018年6月に「山元町東日本大震災遺構保存条例」を制定し、震災遺構としての意義をうたい、屋上に同時に登る人数を制限するなど安全確保の運用措置をまとめた。同年11月、宮城県建築審査会が、旧中浜小学校を保存建築物として建築基準法適用除外とすることに同意したことによって、保存建築物として極力被災したままの状態を保ちながら、見学者の内部立ち入りを伴う公開を行う条件が整えられたのである。


おわりに
本稿は、筆者のドタバタとした実践経験の中で、災害遺構のデザインについて気づいたことの覚書である。被災当事者として災害遺構をデザインする機会は望んで得られるものではないし、そのような機会は今後もできれば無い方がよいのだけれど、災害は忘れた頃にどこかで必ずまた起きてしまうし、そうなればきっと深い反省とともに災害伝承の重要性が説かれ、被災建築を保存活用した新たな災害遺構が求められることになるであろう。その時に巡り合わせたデザイナーもきっと、被災と復興によって激変する環境の中で奔走しながら、災害遺構をつくることは、単に凍結保存することではなく、かつてあったものの意味を変えて価値を創出し、人々に世界の変容を告げるリノベーションとして未来に投企するデザイン行為だったのだと考えるに違いない。


最後に、東日本震災で被災された方々に改めて弔意を表します。

参考文献
1) 本江正茂: 山元町震災遺構中浜小学校——遺構保存のデザインプロセスから, 建築防災 2021.3, vol 518, pp.26-31, 日本建築防災協会, 2021,
2) 小川伸彦: 言葉としての「震災遺構」:東日本大震災の被災構造物保存問題の文化社会学、奈良女子大学文学部研究教育年報, 12, pp.67-82 (2015.12.31).
3) 佐藤翔輔,今村文彦:東日本大震災の被災地における震災遺構の保存・解体の議論に関する分析-震災発生から5年の新聞記事データを用いて-,日本災害復興学会論文集,No.9,pp. 11-19,2016.7.



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?