<下流老人 Life Wreck> 眼鏡ストラップと不治の病と生と死と
老眼を自覚したのは三十代の半ば過ぎだった。初めて行った場所で、地図を確認しようとしたのだがピントが合わない。メガネを外して近寄せてやっと見えた。その時は、さすがにまだ老眼のはずはないと思ったのだが、実際にはここからどんどん老眼が進んだ。
ぼくは子供の頃からの弱視だ。これは親の遺伝だと思う。初めてメガネを作ったのは小学三年のとき。あの頃は黒縁のセルロイドのフレームしか選択肢はなかった。絵に描いたような坊ちゃん刈りのメガネ小僧だっただろう。
症状は強度の近視と乱視だが、その後、視力はどんどん下がって〇・1に。中学の頃の学校の視力検査では、まず最初に「一番上しか見えません」と言うの決まりになった。それで何メートルか前に出て検査するのである。
時々、老眼になると近眼が治るんでしょうと言われることがあるが、もちろんそんなことはない。だから世の中に遠近両用メガネが存在しているのだ。ただし日常生活では見える焦点がどんどん変わっていくので、普段使いのメガネの度数は、実用性の面から中距離が一番見やすいように弱めになっていく。もちろんそのぶん遠くは見えづらくなる。
一応言っておくと、弱視者の近視と加齢による老眼は、そのメカニズムが全く違う。弱視者の大半は眼球に奇形があるらしい。本来は球形であるはずの目の玉が洋梨のような形に変形していくのだ。単純化して言えばスクリーンの位置が遠くなるために画像のピントが合わなくなる、これが近視である。一方、加齢による老眼は水晶体、つまりレンズがうまく動かなくなる=ピント調整機構が壊れることによって生じる…らしいのだが、ぼくも本当は良く知らない。間違ってたらゴメンということで。
何にしても、ぼくの場合は遠近両用などでは追いつかず、状況に応じてメガネを外したり、度数の違うメガネに掛け替えないと生活できない。
ここで欲しくなるのが眼鏡ストラップだ。メガネのツルに紐やチェーンを引っかけて首から吊す、あれだ。
ちょっとした時にメガネを一瞬外して近くを見てまたかけ直すという時、これは本当に便利なのだ。メガネを手に持たなくて良いから作業に支障が出ない。
一〇〇均でも売ってるから、ぼくもだいぶ買った。ただ中々しっくりこない。一番の問題は紐部分で、これが固すぎたり太すぎると使いづらいし、また首に掛かった部分が夏には汗で貼り付いたり、冬には特に金属の鎖だと冷たかったり、不快なのだ。ぼくは外側を糸でくるんだ細めのゴム製が一番好きなのだが、これの欠点は劣化が早いこと。ゴムなのか外側の糸部分なのか、接着剤が溶け出してべたべたになる。見た目も汚らしい。同じものをずっと買い換え続けられれば良いが、こういうのは一期一会で、まず同じものは売っていない。
一年三百六十五日、終日使うものなので本当に自分の気に入ったものでないとダメなのだ。それでついに自分で改良、もしくは自作するようになった。
最初は壊れたり劣化したりした部分の交換をしていたが、いろいろやっているうちに、最近やっと自分向きのストラップにたどり着きつつある。実は知らなかったのだが、Amazonとかではちゃんと眼鏡ストラップ用の部品を売っている。もちろん自分オリジナルだから、そういう専用パーツだけではなく、手芸や釣り、DIYに使われる部材なども流用する。さらに使っているうちに改良したいところが出てくるから、それを少しずつ直して進化させていく。その結果、現在の眼鏡ストラップは次のようなものになった。
まず、ツルに引っかける部分は、補修パーツも買ってあるのだが、今回は使い古した一〇〇均のものから切り取って流用。そこにやはり一〇〇均で買ったアクセサリー用のチェーンを十二~三センチにカットして、手元にあった八ミリ径のステンレス製ダブルリングで繋ぐ。
チェーンの反対側にも同じダブルリングを付け、その先にAmazonで買った長さ十四ミリの回転カンを付ける。回転カン(スイベル)というのは単純に言うと二つの輪がシャフトで繋がれて自由に回るようになっているもの…って言葉で説明するのが難しいので、各自ネットで調べるように。この回転カンが無いとどこまでもチェーンが捻れてしまう。これ重要。問題は強度だが、これは今のところなんとも言えない。
そして最後に首に掛かる部分は十八番手くらいのカラーワイヤ(白)を使う。直径が一ミリ弱だから、この位の針金だと好きに曲げられ、またある程度形状を維持できるので、気に入った形にしておくことができる。この両端と回転カンを接合すれば完成だ。
暑いとメガネチェーンがうっとうしくて仕方ない時があるのだが、少なくともぼくはこれでほとんど不快感が解消された。あくまで自分にとって最適ということでしかないが。首掛け部分を針金にしたのは、フォーク歌手がブルースハープ(ハーモニカ)を口元に固定するホルダーから思いついた。
ところで弱視の人は近視、遠視だけではなく、他の病気を発症する確率が高い。おそらく眼球の変形が網膜などにダメージを与えるからだろう。強度の近視は網膜剥離を起こす危険性が高いと言われる。ぼくの場合はすでに緑内障を発症している。これも弱視者に多い病気だ。
発症のだいぶ前から年一回の検査を続けていたのだが、数年前に発症を宣告され、先日の検査では症状が進んできたと言われた。緑内障はまだ完全に病気の原因がわかっておらず、治療法も無い。一般的には眼圧を下げる対処療法を生涯続けることになる。そのための点眼薬がひとつ追加された。
不治の病、という言い方はいささか大袈裟に感じるが、事実はそうである。もちろん別の見方をすれば、これは老化と言えるかもしれない。つまり病気が発症する前に死んでいたらこの病気にならなかったと言えるからだ。人生五十年と言うが、おそらくほ乳類としてのヒトの自然な寿命はその位なのではないかという気がする。というのも、例外も多いけれど、多くの生物は子孫を残した時か生殖能力を失った時が寿命だからだ。新生児死亡率が低いのに長期間多産で、かつ生殖能力を失ってからも長期生存するのは、人間と人間化した家畜・ペット類に多く見られる傾向である。
人間が長生きをするようになって、あえて言えば無理矢理生きながらえるようになって、病気と病人は増えたと思う。本当ならそれにかからないまま死んでいた人が、それだけ長生きするようになったのだから。
最近は老化は病気だという説を唱える人もいる。分からなくもないが、それはひとつの思想的、哲学的論点と言うべきかもしれない。ぼくは老化とはむしろ自然の限界を突破してしまった状態なのではと思ったりするのだが。
言っておくが、ぼくは人間が長生きすることを否定しているのではない。当然それは我々にとって望ましいことだ。だからこそ、それが特別な事だと自覚することが、自分と他者の生をより強く尊重することに繋がると思う。
人間は病気や老化と戦い続けてきた。それ自体は間違いではないだろうが、これからは病気や体の変化と共存していくという考え方も必要になってくるのではないか。病気の悪化が先か、死ぬのが先かで、ずいぶん世界観や人生観が変わるのではないだろうか。もちろん未熟なぼくにはわからないことの方がまだ多いのだが。
ただ、そうすると障がいと病気の関係はどう考えたら良いのだろう。障がいは見方によればひとつ個性でもある。弱視でメガネをかけた少年だったぼくは、別に障がい者と思われていなかったし、それは個性と見られていたと思う。障がいはその機能さえ補完できれば、少なくともひとりの社会の成員としては問題なく生きられる。弱視者はメガネをかければ良いだけだ。
一方、病気はアクシデントであり、一過性のもので、それ自体を取り除かねばならない。ただその場合、不治の病をどうとらえればよいのだろうか。不治の病は病気なのか障がいなのか。それともその両方なのか、そもそもそこに境界は無いのか。
結局は、これは生きるとは何なのか、死とは何かという問いなのかもしれない。そうであるなら次に来る疑問は、生というのは誰にとっても同じものなのかどうか。歴史に名を残す人物と無名の庶民、私とあなたの生と死に意味の違いはあるのだろうか。
いろいろ難しい。もしかすると昔の人達はそんなに難しく考えることなく(暇無く?)、潔く死んでいったのかもしれない。メガネをかけたり外したり、遠く近くを繰り返し見ながら、現代人は長い生を生きて行くしかないのだろう。
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