ここさけ2

世界を変えたがっているんだ

  昨年、安彦良和さんがこんなお話をしていました。

「(ヤマト2199を見て)腹が立った。日本沈没もオリジナルと変わってしまった。愛が日本を救う、になった。国を背負わなくなった。社会がなくなり、個人の動機でしかなくなった……だから、まだまだアムロを若者には渡せないと思った」

 オリジンの製作がスタートした直後ということもあり「まだまだ若いもんには負けんぞ」と安彦さんが発奮してくれているようで、会場内は笑いに包まれたのですが。

 この直前にも、安彦さんは以下のように話されていました。

「『王立宇宙軍』には、何のメッセージもないが、映像は素晴らしかった。(公開当時に観た時に)悪いモノを見ちゃったな、と思った。無意味なんだけど、技術はスゴイ。この無意味に意味はあるのか

「映像は素晴らしい。なんだこいつらは!と思った」という安彦さん。確かにただロケット飛ばすだけだし、話が終わってもいない。

 この言葉に応えるように、同席していた評論家の東浩紀さんも、

「ガイナックスの作品には全くメッセージがない。エヴァもすごいけど、メッセージがない。なんででしょう?このままではもったいない。物語とメッセージが無くなっている。寧ろそれがスゴイ、なぜ書けないのか」

 私は、このお二方のコメントを引用して、同意したり反論したりをするつもりはありません。何故なら、これらの談話で語られる「意味あること」と今、求められているメッセージや「動機」はズレていると考えるからです。

 安彦さんや富野監督が語っておられるように、アニメは子供のもの、という認識があり、その中で大のオトナが一生の仕事としてやっていくためには、何らかの「主張」が必要だった。それがドラマであり、メッセージだったわけですが、それが、今、果たして求められているのか。

 アムロ・レイは正義漢です。意外に知られてませんが(笑)。

アムロ初期設定には「正義感、負けん気、行動的、感情的」とあり、それはその後も一環していると思います。 

それはガンダムに乗る動機から見て取ることができます。

 サイド7の普通の、チョット根暗な少年だったアムロは、ザクの急襲によって避難する途中、父が開発に携わる連邦軍のモビルスーツを目にします。その直後、いつも自分の世話を焼いてくれているフラウ一家が目の前で惨殺される。生き残ったフラウに「走れ!」と叫んだ後、自らはザクと戦える力を持っているはずのガンダムに乗り込む。

 と整理すると、アムロは実に「正義感」に満ち溢れています。根暗だったりひねくれていたり、感情を表に出さないところはありますが、その動機は「自分たちの生活を破壊したジオン軍と戦う」こと。

 一方、よく似ていると言われたりする『エヴァ』の碇シンジはどうでしょう?

 第一話、シンジは急に父に呼び出され、エヴァに乗れと命令される。使徒に対することができるのはエヴァだけで、それを操縦できるのはシンジだけ。並に正義感を持っていたら、「はい、やります」の一言で済んじゃうところですが、シンジは嫌がる。できるわけないよ、と。

 で、結局乗ることになったのは、自分より明らかに弱いし、怪我もしている綾波レイが無理してまで乗ろうとしているから、だったら自分が、と。

 シンジくんが逃げたいのは何なのだろう?

 彼のエヴァに乗る動機が、そういう「正義」にはないことが如実に出ているのが第19話「男の戦い」。

 友人を殺しかけたことでシンジはエヴァを降りるが、そんな時に最強の使徒がネルフ本部に迫る。自分しか戦えないし、どうやら世界の命運までかかっているのに、シンジくんはふらふら逃げ回って戦わない。アスカやレイが目の前でやられて、そこでやっと立ち上がってエヴァに乗り込むわけですが。

 こんだけ自分勝手に乗ったり乗らなかったりする主人公も珍しい。オマケに全人類の運命までそのウダウダにかかっているのですから、周囲としてはもう気が気じゃないでしょうね。

 つまり、シンジくんには「正義」は存在しないか、彼の「正義」は別の場所にある。

 「世界」と相対する主人公を中心に物語を紡いできた安彦さんなどの世代にとっては、シンジくんや『ヤマト2199』の古代やデスラーの動機というのは、「個人の動機」であり「メッセージ」を感じないものなのかもしれません。

 では90年代以降の、主人公が相対すべき「世界」とはどこにあるのでしょうか?

 昨年公開された『心が叫びたがっているんだ』は劇場オリジナルアニメでありながら10億円を超えるヒットを記録した傑作ですが、このアニメの主人公たちは、宇宙の彼方の敵と戦うわけでもないし、ロボットに乗るわけでもない。大人が作った仕組みに抗うこともない。

 彼らが戦ったのは今までの自分。自分を縛っていた過去の過ちからの解放。

 視線の移動だけでの表に出ない感情の表現や、背景に描かれた小道具や情景など、細部にわたって演出に気配りがされていて素晴らしいのですが、それらの表現する世界観は、全て主人公の心情に収束する

 彼らも間違いなく「世界」と相対している。しかし、その「世界」はオトナや社会制度ではない。それは個人のインナーにある、葛藤であったりシガラミであったり。

 だから、物語が完結しても世界は何も変わらない変わったのは彼ら自身なのだから。

 外に向かっていた「世界」が内側に向かっている。それを「無意味」ととるかどうか。

 多くの人が興味を持つのは寧ろ後者です。メロドラマの本質は、どーでもいいと思ってしまう人間関係なんだから。

 「世界」が縮小している、とか外に向かおうという意識が無くなってきた、なんて言い方もできるけど、人のココロを丁寧に描くことも素晴らしい表現ではないか、と思うのです。

 。。このメロドラマの構造については、もうチョット書きたいことがあるので、また後日に。

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